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健康老死

ピンピンコロリ運動   小林薬局・健康情報



七十代半ばの仲間が集まると「誰にも迷惑かけず、元気で長生きしてコロリと逝きたい」と言う話が出たりする。寝たきりでは好きなことも出来ないとか、家族に介護の負担をかけたくないとか、病床で苦しみたくないと言う意識がその裏にある。
 そんな話をするたびに、私の脳裏には一人の女性が浮かぶ。その方は、良寛さんゆかりの倉敷玉島・円通寺の近くに住み、九十歳を迎えた今なお、良寛手まりを伝承している。倉敷に住む私の妹を通じて、その方の話を聞く機会があった。
 良寛手まりは、七色の糸を一本一本重ね合わせて作られる雅な手まりだ。村人に愛され、心優しかったと伝えられる良寛の生涯に惹かれ、手まりを作り始めて五十年になると言う。その手つきは、若い弟子に負けず劣らず見事なものだ。私も「幸せを呼ぶ手まり」として大切にしている。その方は「お迎えがあるまで、元気で良寛手まりを作るんだ。周りの人々に幸せを分けてあげよう」とデイサービスセンターを訪問し、一回り以上年下のお年よりたちに手まりの作り方を教えている。そして何より、元気を与えている。年齢にかかわらず出来る社会貢献を目の当たりにした思いだ。
 生理学の大家で東京大学・名誉教授の星猛氏が提唱している「健康老死」の記事を読んだことがある。健康老死とは「夏の盛りに元気に鳴いていたセミが、お盆の頃ポロリポロリと木から落ちて死んでいくのと同じようなもの」と表現され、「これこそ高齢社会における理想的な死に方だ」と言っている。私も同感である。
 私が役員をしている広島市シルバー人材センターの会員たちは、その健康老死を実践している。清掃や除草作業・放置自転車の再生・お年寄りの介護などの仕事に従事し、わずかばかりの報酬をいただく。体を動かして働ける幸せや、地域社会に役立っていると言う充実感を生きがいに、生涯現役を目指す。その活動を会員たちは「ピンピンコロリ運動」と呼んでいる。
 超高齢化社会は目の前に迫っている。私たちシニアは、長い間培ってきた経験や技能・生活の知恵を、次の世代に残していくことが出来るはずだ。良寛手まりを作りつづける女性をお手本に「健康老死」を実践し、社会参加を進めていくことが出来ればと思う。
参考文献・・・14.3.9中国新聞シニアライフ面 
柄脇常雄・広島市シルバー人材センター理事

佛教と健康

小林 正明(小林薬局)



佛教は二千五百年の昔から、生・老・病・死の問題を解決するために心と身体の健康を維持し、活力を与える文化の総合体であった。今でいう医学、心理学、生態学、物理学と言った幅広い分野の智慧が結集している。そして、お釈迦様も実践した仏法とは、仏の教え(仏になるための教え)と言うことだけではなく、仏(ほとけ)の存在、有様・・・・・・ヨーガや禅、瞑想、呼吸法、食療法などによって生命(心)の自在と制御をおこなうこと・・・・・・を体現していく広義の健康法だった、とも解釈できる。
 考えてみれば、合掌・礼拝に始まり読経や念仏と続く朝の勤行。精進料理による食事。そして作務、座禅、内観など、僧坊の生活は現代人にとっても必要な健康法に満ちている。しかも天台宗の常行三昧とか回峰行をはじめ、各宗派には定められた特別な行がある。そのひとつひとつが、正しい呼吸法により身体の運動・調整と心のコントロールをおこなう健康法なのだ。
 ひるがえって、現代人を取り巻く地球の環境を見ると、言うまでもないことだが、悪化の一途をたどっている。炭酸ガスによる地球の温暖化、ダイオキシン、環境ホルモン、農薬や化学肥料による人体への薬害、地力の衰え、合成洗剤による湖沼、河川、海の汚染。原子力発電の原子炉から排出される放射性物質は海に捨てられ、海の生物を解し濃縮されて人間の口に巡り回って入ってくる可能性がない事はない。
 しかも私たち日本人は、戦後の五十有余年間に食生活の急激な波にさらされてきた。科学調味、合成甘味料、保存料などの各種添加物入りの加工食品、インスタント食品がほとんど人体実験と言ってもいい頻度で与えつづけられた。乳製品、肉、外国産の果物など、『縄文』の昔から穀菜食を数千年も続けてきた日本人の体質には不適応な場合が少なくない食品群。脳神経や体内陳代謝を狂わし、ビタミン、カルシウムの欠乏を起こす白砂糖などを無批判に食べさせられてきた経緯がある。更に、これにタバコとアルコールの恒常的な摂取が加わって、癌、心臓病、脳卒中、肝臓病などが死亡原因の上位を占めるようになった。
 とくに、ちょうど育ち盛りの世代にアトピー性皮膚炎や小児喘息などのアレルギー体質、神経障害、骨折などの怪我の多発と言った悪影響が出ている。
 さて、佛教による健康法だが、水や空気がきれいで、日当たりが良く、騒音のない、情報量も過剰でない環境で生活すること。情緒を安定させ、明るく朗らかな性格、信仰心深く、気力充実し、愉快に前向きの姿勢で暮らすこと。十分な労働と、過不足のない食物によって生きること。他の生き物と一緒に、自然の中で共存していくこと・・・・・・等によって成り立つ。
 人間は自然の子である。だから、大自然の法則に逆らわぬ生活をすれば心身ともに健康を維持できる。朝は早く起き、夜は早く寝ると言う素朴そのものの生活を取り戻し、栄養バランスのとれた食事を腹八分目に食べ、姿勢を正し、信ずる心を常に鍛え、人と人、人と物とのつながりを大切にして生きていく・・・・・・と言うことである。
 しかし、人間の欲望はセーブするのがなんとも難しい。心の中の邪念を払って、無我の境地と言われる状態に達することが重要なテーマになってくる。佛教では、欲と嫉妬と愚痴を「三毒(貪・瞋・癡)」といって禁ずるが、こうした自ら作り出す固定観念に心惑わされ、心の歪が現れてくる。
 これらのことを解決していくために、寺院が、修行から食養生、出来れば民間療法まで含めた心身の健康法を実践する“寺子屋”として機能して欲しいと考えている。早朝座禅や写経会、俳句会、書道会等を開いて欲しい。それだけ寺院は心身の健康に役立つ文化的コミュニケーションが可能な空間なのだ。これからの寺院は、地域住民の健康を担う核となると同時に、死を間近にした人々の心の苦しみを取り除く現代の往生院であって欲しい。それがいわば寺院の原点であり、寺院そのものにとっての唯一の“健康法”となるに違いない。私たちはそういう寺院に足を運びながら、佛教による自然健康法を実践しつづけていきたいと願うばかりである。 合掌
参考文献         健康と医療        池田恵観
             佛教健康入門      朝倉光太郎

日本人の宗教意識



日本人の宗教意識 ―特に仏教の存立形態の観点から― 筑紫女学園大学・甘井麻樹子 本文は,日本人の宗教意識を対象としている.これをテーマとして選んだのは,日常生活の中で,日本人は無宗教であるといろいろなところで見聞きし,果たして本当に日本人は無宗教であるのか日頃から疑問に思っており,それに対する答えを探りたかったからである。今日,日本人は無宗教であると言われている.そして,わたしたち日本人の多くも自分は無宗教であると考えている.しかし,そのように考えていながら正月には初詣に行き,盆には墓参りをし,人が死ねば葬式をする.これらの行動だけを見れば,宗教活動に従事しているのであるから日本人が無宗教であると言い切ることはできない.では,どうしてそのような複雑な構造が出来上がってしまったのだろうか.本稿は,自分を「無宗教である」と規定している日本人が本当に無宗教なのかという問題を,「宗教の定義」「戒律」「儀礼」という面から明らかにすることを目的とする.まず第一章では,日本人の宗教意識の面から,日本人が本当に無宗教であると言い切れるのか考察したい.日本人の考える「宗教」という言葉の意図するところは何なのかを吟味することにより,日本人の「無宗教性」の本質を明らかにしていく.次に第二章では,一般的に意識されている宗教には必ず備わっている戒律の面から,日本人が本当に無宗教と言い切れるのか考察したい.「戒律」を守る宗教だけが 果たして「宗教らしい宗教」なのかという問題に対する,中世の仏教者たちの答えを元に,「戒律」と「宗教性」の本質を明らかにしていく.最後に第三章では,日本仏教の堕落の代表とも言われている葬式仏教というものが,果たして本当にそう言い切れるのか考察していきたい.これだけ無宗教と言われながらも人が死ねば必ず葬儀をするのはなぜなのかということを,そもそもの仏教の本質を考えながら明らかにしていきたい.


 本論 第一章 日本人の宗教意識  日本人が無宗教であると考えられている要因の一つとして,日本人の宗教意識の問題が挙げられる.それは以下の統計から読み取ることができる. 神社本庁が1996年10月「神社に関する意識調査」を,全国の成人男女2000 人を対象に行った.それによると,「信仰している宗教は?」では,「信じていな い」が49.5%であった. 朝日新聞は1995年9月23日付け紙面で,宗教についての意識調査結果を発表し た.それによると,「信仰する宗教はない」と答えた人は63%であった. 読売新聞社は1998年5月に,葬儀やしきたりについての意識調査を行った.それによると,「宗教を信じていない」は78%であった. 『宗教・宗派データ』[1]  このように,多くの日本人が「自分は無宗教である」と考えているのである. また,日本では特定の宗教を信仰していることが日常生活の中で不利になることがある.戦後の日本人がもっている気風の特徴として,まず一つに,会社人間で会社に所属 していることが何よりで,それ以外の何か(組織や団体)には所属したくないと考えていることがある.これは,言い換えれば,何ごとも損得で判断する完全なご都合主義である.二つには,はっきりした価値観を持っていないこと.三つには,物質中心で 超自然的,あるいは彼岸的なものの価値に無関心だということである.こうした平均的日本人の精神的傾向は,何よりも,他人と違っているように思われるといいことはないという考え方に集約されよう.こうした傾向があるので,「あなたは何かを信じていますか」「何か宗教をもっていますか」と聞いた時,「いいえ」 とか「無宗教です」と答えた人だけを,自分たちの仲間に入れてやるということになる.


 『なぜ,人は宗教にすがりたくなるのか』[2]  このように,日本では近所づき合いや親戚づき合い,会社の中で「無宗教である」 ことが,それらの人間関係を円滑にする潤滑油的役割を果たしていることがわかる. ゆえに,日本人は「自分は無宗教である」と考えているともいえるのである.  ところが,同時に大変興味深い統計も見られる.それは以下のものである. 「家庭に神棚があるか?」の質問では,「ある」が51.3% 『宗教年鑑』(平成12年版)で神道系の信者数は106,241,598人,仏教系の信者数は95,787,121人である. 曹洞宗が都市に住む同宗の壇信徒の宗教意識をまとめたもの(94年)によると, 「お墓を持っている」と答えた人は91%であった.


 『宗教・宗派データ』[3] これらの統計は,多くの日本人が「自分は無宗教である」と考えていることと明らかに矛盾している.日本人の多くは,「自分は無宗教である」と思っていながら何らかの宗教活動に従事しているのである.宗教活動に従事している日本人を果たして無宗教といえるのであろうか. 阿満氏によると,「創唱宗教」と「自然宗教」というものがあるという. 「創唱宗教」とは,特定の人物が特定の教義を唱えてそれを信じる人たちがいる宗教のことである.教祖と教典,それに教団の三者によって成り立っている宗教と言い換えてよい.代表的な例は,キリスト教や仏教,イスラム教であり,いわゆる新興宗教もその類に属する.これに対して「自然宗教」とは,文字通り,いつ,だれによって 始められたかも分からない,自然発生的な宗教のことであり,「創唱宗教」のような 教祖や教典,教団をもたない.「自然宗教」というと,しばしば大自然を信仰対象とする宗教と誤解されがちだが,そうではない.あくまでも「創唱宗教」に比べての用語であり,その発生が自然的で特定の教祖によるものではないということである.あくまでも自然に発生し,無意識に先祖によって受け継がれ,今に続いてきた宗教のことである.


 『日本人はなぜ無宗教なのか』[4] 「宗教」とは,一般に「創唱宗教」のことを考えられがちである.その原因として, 「自然宗教」が「宗教」として意識されていないことが挙げられる.では,なぜ「自然宗教」は「宗教」として意識されていないのだろうか.これについては具体例を挙げて説明したい.例えば,初詣である.日頃は神社に行くことのない人も,この日は初詣に行く.子供も,大人も,年寄りも初詣に行くのである.それがはっきりとした 信仰心から行われているものなのかは疑わしい.人々にとっては,ただのイベントにすぎないのかもしれない.しかし,朝日新聞によると,2001年の元旦,大宰府天満宮には約85万人もの人々が初詣に行ったというのは疑いようのない事実なのである.もう一つ分かりやすい例を挙げたい.それは,お盆のときに多くの人々が帰省することである.また,彼岸の際の墓参りもそうである.自分で認識している人は少ないだろうが,阿満氏の定義からすると,これらの行いをする人は「自然宗教」の「信者」ということになる.では,「自然宗教」とはいったいどういうものなのだろうか.これについては墓参りを例に挙げて説明したい.日本人は墓参りの際,当然のように墓に水をかける.しかし,日本人以外に墓に水をかけるという習慣をもっている民族はほとんどいない. では,どうして日本人は墓参りの際に墓に水をかけるのだろうか. 柳田国男によると,墓にかける水は,もともと墓の住人(?)が生まれたときに産湯 として使用した井戸の水でなければならなかった.どうして産湯に使った水でなければならないのか.それは,亡き人にその水を示すことによって,あなたは死んでも決して故郷から遠いところへはいってはいない,いやあなたにゆかりのある人々の近くにいるのだ,ということを教えるためなのである. どうしてそのような面倒な手続きが必要なのか.思うに仏教が民衆の生活のすみずみ にまで入ってきて,人は死ねば極楽という現世からはるかに隔たったところへゆくと いう教えが広まってきたことと関係があるのであろう.日本の民衆の中には,極楽へ生まれることは歓迎しても,ゆかりの人々や土地から離れることには抵抗があったのだ.そのために,墓参に際しては,必ず水をかけるようになったのではないか.


 『日本人はなぜ無宗教なのか』[5]  つまり「自然宗教」とは,ご先祖を大切にする心なのである.人は死んでも遠くへ はいかず,子孫やゆかりの人々を見守っているのであり,お盆や正月には子孫のもと へ帰ると信じられているのだ. このように,日本人は古くから「自然宗教」の信者であったのであるが,一般に「宗 教」というと「創唱宗教」のことであると思われ,また,「自然宗教」が「宗教」であるという認識がなされていないために,多くの日本人が「自分は無宗教である」と考えていることが明らかとなった. また,現世のことを重視するようになったことも,日本人が無宗教であると考えられている一つの要因である. 日本人が現世中心の生活をするようになったのは,中世から近世にかけての人々の生活と宗教への結びつきの変化によるものである. 中世では日常生活のすべてが神仏とともに営まれていた.阿満氏によると,中世は三つのことが信じられていた時代だという. 一つは,神仏の存在が文字通り信じられていたこと.第二は,仏教とともにもたらされたインド人の世界観である六道輪廻,つまりあらゆる生き物は地獄,餓鬼,畜生, 阿修羅,人間,天,の六つの世界を経巡り続けるということを信じていたこと.前世 や来世の存在と生まれ変わりが信じられていたのである.そして第三に,死後,地獄 や餓鬼,畜生といった世界に落ちないように,死後の世界の救済が切実に求められて いたこと,この三者が一体となって信じられていた時代が日本の中世なのである.


 『日本人はなぜ無宗教なのか』[6] このように,中世では宗教に無関心な生活などありえなかったのである.では,このような人々の生活からどうして宗教への関心が失われていくことになったのであろうか. 近世になると,二つの要因によって人々の生活は現世中心になる. まず一つ目の要因は,儒教が入ってきたことである.室町時代から武家たちの家訓として入ってきた儒教の教えが,近世に入り人々の間にまで浸透したのである. はじめは,仁義礼智信という徳目を守ることが神仏への信仰とならんで強調されているけれども,やがて,神仏がこの世に姿をあらわすのも,儒教の教え,つまり仁義礼智信を人々に実践させるためであり,一度として,仏の前で手を合わせたり神社の社殿にぬかずくことをしていなくても,こうした儒教の教えを守っているかぎり,神仏もその人間を救うのだと教えるようになってくる.だから神仏をいわば名指しで頼むのは,死後極楽に生まれるようにと祈るときだけであり,平生は,儒教が理想とする道徳を実践していれば十分だという主張になったのである.


 『日本人はなぜ無宗教なのか』[7]  それまでの人々は,死後,地獄に落ちないための神仏への信仰が中心であった.それが,儒教の教えを第一とする生き方は現世中心の考え方に大きく変化したということになる.儒教でははじめから,現実社会における人間の生き方がその中心をなしており,死後の救済は,ほとんど関心の対象となっていないのである.このような儒教が日本でも勢いを持ちはじめたということは,それだけ人々の関心が現世中心になっ てきたということになる. では,どうして儒教の教えがそのように日本人に受け入れられたのであろうか. 儒教と言えば,普通,孝を中心とした孔子の思想であると思い浮かぶであろう.しかしそれは,孔子が新しい思想を独創的に生み出したのではなく,それまであったいろいろな思想を体系化したということなのである.その体系化された儒教が成立する前,儒教の母体となる原儒というものがあった.それはシャーマニズムを基盤として おり、孝という考え方があったのを,孔子が体系化していくなかで,儒教が成立したのである.儒教の母体となった原儒の本質は,シャーマンである. シャーマン(天上の神・魂など神霊なものと地上の人間をつなぐ能力を持つ祈祷師)は,古今東西を問わず至るところに存在しており,なんら珍しいものではない. しかし,世界のシャーマンのほとんどは,まさに祈祷それだけの任務に終わっており,俗信的水準にある.しかし,儒教は,原儒シャーマニズムを基盤にして,孝という独自の概念を生み出し,この孝を基盤にして家族理論を構成したのである.このような,シャーマニズムを基盤として政治理論までを(さらに後には宇宙論・形而上学 も)有している理論は,おそらく儒教だけであろう.


 『儒教とは何か』[8]  シャーマンは神霊などを招き降ろすのであるが,儒教ではそのシャーマニズムも限定的で,いろいろな神霊を招き降ろすのではなくて,その対象となったのはほとんどが自己の祖先の霊である.後世では,孔子の霊を招き降ろすことなどもあったらしいが,一般的には,自己の血縁者,つまり祖霊を招き降ろすのが原則となっている.それが祖先崇拝とつながっているのである. この祖先崇拝という考え方は,いわゆる「創唱宗教」が入ってくる以前,「自然宗教」としての日本にもともと備わっていた.古代の日本人の死者に対する霊魂観は 「殯」という習俗から窺うことができる. 『紀』の敏達天皇崩御の一説には,大和の広瀬に殯宮の設けられたことが述べられている.この殯宮に立って蘇我大臣の馬子宿禰は,腰に太刀を帯びて故人を偲ぶ. 『紀』にはこのくだりを「刀を佩きて誄たてまつる」と言う. 殯は人の死後,遺体を埋葬するまでのあいだ柩におさめて喪屋に安置し,その前で縁者が思いをこめて身振り手振りをともない,死者の魂を慰める習俗であった.そして馬子がたてまつった誄は,亡き天皇の生前の徳を称える感情のこもった言葉を捧げる 儀礼で,『紀』にはこれ以後,歴代の天皇・貴族の葬送儀礼において誄が行われたことが記されている. (略)  ここには死者にたいする思いの表現と,その周辺にいるであろう大王継承者や近親者にたいするパフォーマンスもあったであろう.いずれにしても,ここには死者の魂が生者からの誄を受けて喜ぶという観念のあることがわかる.しかも誄によって,死者が蘇るかもしれないという期待も見えるのだ.


 『日本多神教の風土』[9] これはいわゆるシャーマニズムであり,古代の日本人は「殯」という習俗で祖先崇拝をしていたことがわかる.このように日本では儒教が入ってくるはるか前から「自然宗教」として祖霊を大切に思うという概念が備わっていた.それゆえ,日本人にとっ て祖霊を大切に思う原儒を母体とする孝という思想を中心とした儒教というものは受け入れやすかったということができるのである. 二つ目の要因は,市場社会の経験である.近世に入り,生産力が高まるに伴い,世 の中は「市場に生きる生活」が中心となったのである. 明治の段階で,「宗教らしい宗教」への需要がほとんど消滅していた真の原因は, 三百年に近い市場社会の経験が,「市場に生きる生活」を確立し,「信仰に生きる生活」を不要にしたことにある.都市ではカネを使う生活が当たり前のものとなり,市場でカネを稼ぐために働き,あるいは金儲けを追及することが人々の生活の中心と なった.ここには出家して修行生活に入ったり,信仰に生きる脱世俗的な生活に身を投じたりする余地はほとんどない.「聖」と「俗」を分けるなら,人々の意識と行動 の中で「聖」への関心は希薄になり,「俗」の生活が圧倒的な関心をしめるようになる.


 『脱宗教のすすめ』[10] 近世では人々の生活が市場社会の中で営まれた結果,人々の関心の対象は完全に現世中心となったのである. このように,日本は儒教を受け入れやすい状態であったが,それはその根底に「自然宗教」と考えても良い祖霊祭祀の考えがあったからである.そして,儒教の影響を受けて,日本人は来世の救済よりも現世利益を重視するようになった.ところが,その根底には祖霊を大切にする「自然宗教」があったことは無視できない.現実の生活に いそしむ日本人は意識するにせよ,意識しないにせよ,自分の家の祖霊に対する敬いの気持ちを持ちつづけ,それが具体的な宗教活動に現れているのである.ゆえに,宗教意識が薄いということで,日本人が無宗教であるということはできないのである.


参考文献表
阿満利麿 [1996]『日本人はなぜ無宗教なのか』 (ちくま新書085,筑摩書房, 東京)
小田晋  [2000] 『なぜ,人は宗教にすがりたくなるのか』 (三笠書房,東京)
加地伸行  [1990] 『儒教とは何か』 (中公新書989,中央公論社,東京)
久保展弘  [1997] 『日本多神教の風土』 (PHP新書024,PHP研究所,東京)
浄土真宗教学研究所浄土真宗教学委員会  [1998] 『歎異抄―現代語版―』 (本願寺出版社,京都)
竹内靖雄  [2000] 『<脱>宗教のすすめ』 (PHP新書099,PHP研究所,東京)
塚本善隆  [1983] 『法然』 (日本の名著5,中央公論社,東京)
ひろさちや  [2000] 『お葬式をどうするか―日本人の宗教と習俗―』 (PHP新書123, PHP研究所,東京)


[1] インターネット(http://www.sekise.co.jp/sougi/institut/dw/199907.html) を参照せよ.
[2] 小田[2000:108]を参照せよ.
[3] インターネット(http://www.sekise.co.jp/sougi/institut/dw/199907.html) を参照せよ.
[4] 阿満[1996:11]を参照せよ.
[5] 阿満[1996:15-16]を参照せよ.
[6] 阿満[1998:32―33]を参照せよ.
[7] 阿満[1998:36―37]を参照せよ.
[8] 加地[1990:53]を参照せよ.
[9] 久保田[1997:59-60]を参照せよ.
[10] 竹内[2000:17]を参照せよ.
[11] 塚本[1983:361-362]を参照せよ.
[12] 浄土真宗教学研究所[1998:8―9]を参照せよ.
[13] 浄土真宗教学研究所[1988:1086-1087]を参照せよ.
[14] 竹内[2000:22-23]を参照せよ.
[15] 阿満[1996:49-50]を参照せよ.
[16] 阿満[1996:53]を参照せよ.
[17] 小田[2000:92-93]を参照せよ.
[18] 阿満[1996:56]の尾藤[1992]の引用を参照せよ.
[19] ひろ[2000:182―183]を参照せよ
第二章 「戒律と宗教の本質 」は来月の法話で。

日本人の宗教意識第二章

第二章 戒律と宗教の本質  第一章で述べたように、『宗教年鑑』によれば神道系の信者および仏教系の信者の数はそれぞれ約1億人と数えられており、ほぼこの二つが日本人の信仰する宗教と考えて差し支えないであろう。もちろん神道に開祖および聖典は存在せず、これは「自然宗教」と理解される。したがって日本人が神道に対する帰属意識を持たないことは明らかであり、意識することなく日本人の半数が神道の信者であると考えてよい。「自然宗教」に関しては、単に個人の意識の問題であることを鑑みれば、日本人が無宗教であるという見解が否定されることは当然なのである。


 それではもう一方の仏教系の信者についてはどのように理解されるべきなのであろうか。日本には様々な仏教宗派が存在するが、その開祖は遡れば釈尊ということが出来る。しかもそれぞれの宗派には、空海、最澄をはじめ明確な開祖が存在する。すなわち仏教は「創唱宗教」に分類されるであろう。本章では日本の「創唱宗教」の代表である仏教に関して、その信仰心と仏教のあり方の観点から考察してみたい。


 第一章において、近世の日本人の思考が現世中心となった二つめの理由として、日本人が三百年に渡って市場社会を経験したことについて論じた。すなわち、竹内氏によると市場社会が成熟するにつれ人々の関心が、信仰に裏打ちされた宗教的生活より も日常の経済的生活に移行したというのである。それでは神仏に対する信仰を堅持つつ「聖」なる生活を送ることに無関心な大衆は、本当に「宗教」を必要としなかったのであろうか。さらに言えば、仏教はこのような大衆に対して、一つの「宗教」として何ら救いを与えることはなかったのであろうか。ここではまず「戒律」という概念を問題としたい。「創唱宗教」である仏教にはもちろんその教義を示した聖典すなわち仏教聖典が存在する。具体的にはインド招来の様々な大乗経典や日本仏教各宗派の開祖が著した経典群が挙げられよう。これらの経典群にはそれぞれの教義に照らして、諸々の戒律、すなわち僧侶としての生活規定が説かれている。仏教各派の僧侶たちはこの戒律を遵守しつつ悟りという最終目的に向かって邁進していたと考えられる。このように明確な教義を持つ仏教の「聖」なる一面としては、過去の多くの僧侶たちがそうしたように、「戒律を守った上での信仰生活」というものが第一と考えられていた。このような仏教の「聖」の部分こそが竹内氏の言う「宗教らしい宗教」なのであろう。もちろん、中世の大衆はこのような「聖」なる生活を送る宗教エリート(僧侶)を尊敬し、自分の宗教的生活の模範もしくは理想と捉えたに違いない。宗教はどこまでも「聖」であることが求められていたと言ってよいであろう。近世に入ると確かに江戸幕府という安定した政体のもと、強力な市場社会が登場し、人々が「聖」を求めることは希薄になったと考えられる。しかし、仏教の側から見れば、既に中世の段階で「俗」の世界に対する働きかけがあったことも事実なのである。すなわち、法然、親鸞、蓮如らの浄土系仏教の思想が、仏教を大衆のものに引きおろした代表であると言えよう。


 仏教には五戒、十戒、二百五十戒など、たくさんの戒律が定められているのであるが、ここでは「殺さない」、「淫らな行いをしない」という二つの戒、つまり、肉食妻帯というものをとりあげて考察していきたい。人間には煩悩というものがある。そして、煩悩から完全に解放されることはきわめて難しい。その煩悩を人間の避けられない条件と認め、そこから出発した人々の存在がある。「法然」「親鸞」「蓮如」である。彼らは戒というものを重要であるとは考えなかった。彼らの思想は持戒・破戒の問題を超えたところにあったのである。では、彼らの思想とはどのようなものであったのだろうか。現世の世を暮らすべき方法は、念仏がとなえられるように暮らしなさい。念仏のさまたげにきっとなりそうであるならば、どんなものでも、あらゆるものを嫌い捨てて、これをおやめなさい。いうなれば、聖の生活をしていて、念仏が申されないならば、妻をめとって申しなさい。妻をめとって申されないならば。聖の生活をして申しなさい。


 『和語燈録』[11] 僧侶の妻帯は、平安時代の初め頃からしだいに行われはじめ、十三世紀の後半になると、一般的現象となった。それでも、持戒を固く守った少数の高僧たちはいた。その一人が法然である。しかし法然は、肉食妻帯は破戒であるという立場にはたたなかった。法然によれば、人間存在の究極目的は、往生することであって現世における持戒生活ではない。往生の唯一の道である念仏のさまたげとなるものはことごとく捨て去ってよい。と法然は言うのである。法然が創唱した専修念仏とは、持戒か破戒かというものは、その中ではまったく意味を失ってしまうような広大な本願の空間である。持戒堅固の者も専修念仏をとらないかぎり往生はかなわないし、反対に破戒・無戒の人でも、念仏によってまちがいなく往生する。つまり、法然は持戒の者も破戒の者も区別することなく受け入れるのである。その中に、肉食妻帯という破戒ははじめて公の場所を許されたのである。持戒堅固で知られた高僧たちでさえ、たびたび戒を犯しそうになったという。その事実は、持戒といっても外面もしくは意識面だけのことであって、内面あるいは意識の深層には破戒が侵入していることをあらわしている。煩悩を断じないで往生する道を開いたのが親鸞であった。あらゆる煩悩を身にそなえたわたしどもは、どのような修行によっても迷いの世界をのがれることはできません。阿弥陀仏は、それをあわれに思われて本願をおこされたのであり、そのおこころはわたしどものような悪人を救いとって仏にするためなのです。ですから、この本願のはたらきにおまかせする悪人こそ、まさに浄土に往生させていただく因を持つものなのです。それで、善人でさえも往生するのだから、まして悪人はいうまでもないと、聖人は 仰せになりました。


 『歎異章?現代語版?』[12] 親鸞によれば人間存在の本質は、持戒と破戒との双方への可能性をもったものではなく、はっきりと破戒、煩悩具足の凡夫たるところにあり、しかも本願はまさしくそういう破戒の凡夫のためのものである。それは、救われないものが救われるという矛盾の統一にほかならない。それゆえ、親鸞の仏教はもはや煩悩からの離脱を説かない。煩悩のすべてを持ったままで如来の本願に包まれよと教えるのである。親鸞のこのような思想がひろく日本人の大衆の生活に浸透したのは、蓮如の存在を通してである。蓮如は如来の本願への信心の大事さを合計三百通近くある『御文章』にくり返し説いている。なかでもつぎのものは、親鸞が開いた悪人正機の浄土真宗の真理を最も具体的に説いたものの一つである。まず、当流の安心のをもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。ただあきなひをもし、奉公をもせよ、猟すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんとちかひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく弥陀一仏の悲願すがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにれば、往生はいまの信力によりて御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念仏申すべきなり、これを当流の安心決定したる信心の行者とはまうすべきなり、あなかしこ、あなかしこ。


 『御文章』[13] 【試訳】まず、浄土真宗の安心の趣旨は、必ずしも自分の心が劣っていることをも、また、迷いの心やそれからくる執着が発生することをも、抑えよというのではない。ただ商いをもし、奉公をもせよ、狩や猟をもせよ、このような罪深い行いにのみ、朝夕思い悩むわたしたちのようなとりえのないものを、たすけましょうとお誓いなさっている阿弥陀如来の本願でいらっしゃるのだと深く信じて、一心に二心なく阿弥陀如来というひとつの仏の悲願にすがって、たすけてくださいと思う心の一心に仏を信じる心が本当であるならば、必ず阿弥陀如来のおたすけを受けるものである。このうえには、何と心得て念仏を申すべきなのかと言うならば、往生は今の信心の功徳力によっておたすけがあるというありがたさに対する御恩報謝のために、自分のいのちがある限りは、報謝のためと思って念仏を申すべきである。これを浄土真宗の安心が定まっている行者と言うべきである。まことに畏れ多く、尊いことである。文明三年十二月十八日の日付があるこの文は、蓮如が越前の吉崎に進出して布教を開始した年に書かれている。その対象となったのは、自力聖道門の行者でもなければ、他人の力によって優雅な生活を楽しんでいる貴族たちでもない。商人と農民と武士と漁夫たち、つまり普通の大衆である。普通の大衆とは、煩悩の火に焼かれる以外に生きることのできない存在のことである。商いをする以上、ときには嘘を言うことは避けられない。「商いをもせよ」ということは、嘘をつくことがあってもしかたがないということである。奉公をするということは、戦いに行って人を殺す可能性をもっていることである。そうすると、「奉公をもせよ」ということは、人を殺してもしかたがないということである。これらの蓮如の言葉の中には、親鸞の言葉がひびいている。煩悩とともに生きる以外に人間の生き方はない。そういう煩悩の凡夫こそ自分というものの正体だと知らされたことが、如来の本願に自分をまかせたということである。


 前章で、竹内氏は人々の生活を「聖」と「俗」で分けて説明したが、法然や親鸞や蓮如の思想は「聖」とか「俗」というものをはるかに超えたところにあり、仏教の本質に「聖」「俗」は一切関係ないのである。彼らは仏教を「俗」の生活にいそしむ人々の中に引きおろし、その結果として仏教の本質を「聖」「俗」と区別される世界にとどまらないものであると宣言した。すなわち、近世に至って大衆が「俗」にのみ関心を持つようになる前に、「俗」の生活を営む日常の中にも仏教の言う救済があることを示していたのである。


 このように、戒律を守らないすなわち「俗」なる生活を送ることが、日本人が無宗教である理由に直結するものではないことが明らかとなった。彼らの思想は、戒律を守る(「聖」)か、守らない(「俗」)かということではない。煩悩は人間から切りはなすことができないものであることを認め、それでも往生するということである。外側から見ると、戒律を守りそれに忠実な生活をすることが信仰の厚い証拠であり、そうでない者は信仰がないように思われるが、本当に重要なことはそういうことではないのである。「法然」「親鸞」「蓮如」が行き着いた如来の本願とは、持戒・破戒というものを超えたところにあり、破戒というよりも無戒であるといってよいだろう。戒律を守らないことが日本仏教の堕落であるという見方があるが、実はそうではなく、戒律にとらわれないところまで行き着いたのであって、戒律を守らないことで 日本人が無宗教であるということはできないのである。


 参考文献表
阿満利麿 [1996] 『日本人はなぜ無宗教なのか』 (ちくま新書085,筑摩書房, 東京)
小田晋  [2000] 『なぜ,人は宗教にすがりたくなるのか』 (三笠書房,東京)
加地伸行  [1990] 『儒教とは何か』 (中公新書989,中央公論社,東京)
久保展弘  [1997] 『日本多神教の風土』 (PHP新書024,PHP研究所,東京)
浄土真宗教学研究所浄土真宗教学委員会  [1998] 『歎異抄―現代語版―』 (本願寺出版社,京都)
竹内靖雄  [2000]『<脱>宗教のすすめ』(PHP新書099,PHP研究所,東京)
塚本善隆  [1983]『法然』(日本の名著5,中央公論社,東京)
ひろさちや  [2000]『お葬式をどうするか―日本人の宗教と習俗―』(PHP新書123, PHP研究所,東京)


[1] インターネット(http://www.sekise.co.jp/sougi/institut/dw/199907.html) を参照せよ.
[2] 小田[2000:108]を参照せよ.
[3] インターネット(http://www.sekise.co.jp/sougi/institut/dw/199907.html) を参照せよ
[4] 阿満[1996:11]を参照せよ.
[5] 阿満[1996:15-16]を参照せよ.
[6] 阿満[1998:32―33]を参照せよ.
[7] 阿満[1998:36―37]を参照せよ.
[8] 加地[1990:53]を参照せよ.
[9] 久保田[1997:59-60]を参照せよ.
[10] 竹内[2000:17]を参照せよ.
[11] 塚本[1983:361-362]を参照せよ.
[12] 浄土真宗教学研究所[1998:8―9]を参照せよ.
[13] 浄土真宗教学研究所[1988:1086-1087]を参照せよ.
[14] 竹内[2000:22-23]を参照せよ.
[15] 阿満[1996:49-50]を参照せよ.
[16] 阿満[1996:53]を参照せよ.
[17] 小田[2000:92-93]を参照せよ.
[18] 阿満[1996:56]の尾藤[1992]の引用を参照せよ.
[19] ひろ[2000:182―183]を参照せよ


第三章 「葬儀と仏教」は来月の法話で。

日本人の宗教意識第三章



第三章 葬儀と仏教  今日、日本仏教は「葬式仏教」という言い方でしばしば批判の対象となっている。では、どうして「葬式仏教」というものが批判の対象となっているのであろうか。


 日本の仏教は今や代表的な市場型宗教である。「葬式仏教」こそ宗教の世俗化の先頭に立っているわけで、市場社会の中の宗教のあり方を見事に示しているのである。(略)他の宗教も多かれ少なかれ市場化、産業化を進めている。葬式市場は仏教の独占に近いが、婚礼サービスの市場では仏教のシェアはゼロに近く、かわって神道とキリスト教で市場を分け合っているし、地鎮祭サービスは神道の独占であり、神社はお宮詣り・七五三・厄年のお祓いといったサービスを提供する、といった具合に、各宗教の間で「棲み分け」の関係ができあがっているのである。人々はこうしたサービスを必要に応じて利用しているが、そこに見られるのは、カネを払ってサービスを購入するという普通の市場の取引であって、宗教だからという特別な要素は何もない。神社が販売しているお守り、おみくじ、絵馬、破魔矢、などの「宗教グッズ」、寺院が拝観料を取って提供している観光サービスなども同様で、要するに日本では今や宗教の大きな部分は、市場で宗教サービスや宗教グッズを供給する宗教産業なのである。


  『脱宗教のすすめ』[14]    このように、日本人は必要なときにだけ宗教を利用しており、その代表的なものが「葬式仏教」であるという。さらに、「葬式仏教」は、仏教の堕落の象徴であり、また、日本人が「無宗教」であることの象徴でもあるというのである。表面的に見れば、そのような言われ方をしてもしょうがないのかもしれないが、視点を変えてみると、「葬式仏教」はとても奥が深くなくてはならないものであることが明らかになってくるのである。では、その「葬式仏教」とはどのようなものなのであろうか。「葬式仏教」とは、日本独自の仏教のあり方のことである。そして、この「葬式仏教」は「無宗教」であることを不思議とも思わないということを陰で支える、大きな役割を果たしているのである。「葬式仏教」は、日本独自の仏教のあり方であり、他の仏教が今も生きている国や地方で「葬式仏教」といってもほとんど意味は通じないであろう。それぐらい「葬式仏教」というものは日本固有のものなのである。まず、僧侶によって死者に戒名や法名がつけられる。法名という呼び方は、教義上戒律を必要としない浄土真宗の教団で使用される。戒名(法名)は、おしなべて「釈 ○○」と記されるが、その「釈」は、釈迦の「釈」に由来しており、仏弟子になったことを示す。もとは、生きているうちに仏教徒になった証として与えられるものであることはいうまでもない。つぎに、葬送が仏教儀礼で行われ、そのあと死者のための法要や年忌が、僧侶を招いて行われる。具体的に言えば、初夜、二七日(ふたなのか)、三七日、四七日など一週間おきの法要があって、中陰つまり四九日が行われる。このあと百ヶ日、一周忌などがあって、普通は三三回忌で終了する。 (略)  さらに、毎年故人の死んだ月日に僧侶を招いて読経をしてもらう(祥月命日という)ほかに、毎月故人のなくなった日にも僧侶を招く(月忌法要)。そして春秋の彼岸を初め、盆や祥月命日には墓参をする。そのときも、僧侶に読経を頼む。家に仏壇があって位牌があることは、いうまでもない。旦那寺には、代々の故人の過去帳に記載されており、住職はその過去帳を操っては、誰それの何回忌がまわってきました。と子孫に知らせる。それにしたがって法要が営まれる。これが「葬式仏教」の具体的なすがたなのである。


 『日本人はなぜ無宗教なのか』[15]  このように、「葬式仏教」とは死者・祖先を祭る、つまり死者祭祀のことをいうのである。しかし、阿満氏によると、インドでは七世紀後半にいたるまで、仏教徒の葬式は、火葬場で簡単な経文を読み上げるだけであったということであるし、また、仏陀は自分が死んでも葬式は在家の者に任せて弟子たちは修行に励むよう教えていることからも分かるように、仏教はもともと死者祭祀を重要とする宗教ではなかった。では、そのような仏教がどうして死者祭祀と深いかかわりを持つようになったのであろうか。それは、仏教が中国に入ってからのことである。前章で述べたように、中国では非常に「孝」という考え方が重んじられる。今生きている親に「孝」を尽くすだけではなく、その親が亡くなってからも「孝」を尽くすのである。それで、中国で死者祭祀の儀礼が発達し、その死者祭祀の儀礼が備わった形で日本に仏教が伝わったのである。では、「葬式仏教」は、どのようにして日本人に受容され、成立していったのであろうか。まず、「自然宗教」において死者の鎮魂慰霊の技術が発達していなかった古代の豪族が死者祭祀の儀礼を彼らの先祖祭祀に利用した。古代人にとって死者はケガレた存在であり、そのケガレをぬぐい去らない限り、カミにはなることができないと信じられていた。「歴代の先祖」は、先祖であっても墳墓で祭られているかぎり、「死穢」をまぬがれていないのであり、その「死穢」を克服してカミ、つまり「出自の先祖」に連なる存在となるために、新しく伝来した仏教が注目されたのである。


 『日本人はなぜ無宗教なのか』[16]  つまり、古代の豪族が仏教を利用したのは、先祖の死のケガレをぬぐい去るためであったのである。一三世紀になると、法然の専修念仏というものが登場してくるのであるが、これもまた、「葬式仏教」の成立の上では重要なものであるといえる。まず、法然の専修念仏についてであるが、法然は生きている人間の救済を念仏の対象とした。阿弥陀仏は、その人間が善人であろうが悪人であろうが、救いとって仏とするというのである。法然の念仏は、あくまでも生きている人間のためのものであり、死者の鎮魂慰霊のためのものではなかった。それが、次第に、阿弥陀仏の広大な慈悲にすがって、死者の成仏も願うという風潮が生まれてきたのである。そして、既に述べたように、日本人の現世利益重視という考え方が確立したのは近世とくに江戸時代のことであった。この日本人の意識の変化には儒教の影響が窺われるが、それと共に無視できない要因として、政治の宗教に対する介入すなわち江戸幕府による寺請檀家制度が挙げられる。 檀家制度とは、人々が必ずもよりの寺院に所属し、寺に人別(戸籍)を登録するというものである。寺院が発行する寺請証文は今でいうなら戸籍謄本、住民票、パスポートにあたり、それがなければ、結婚はもちろん就職も旅行もできなかった。そればかりか、キリシタンとみなされて村八分にされたり、ときには、死に至るほど過酷な追及を受けることもあった。そのため、寺は、檀家という形で、一人ひとりの身分を保障してやる強い権限をもつことになった。地域の住民を檀家にもつことで寺院は、安定した経済基盤をもつことになったのである。いざというときに寺の機嫌をそこねたくない檀家は、常日頃から寺につけ届けをするようになる。しかし、檀家制度が敷かれたのちも島原の乱が起こったりして、キリシタンをなかなか根絶することができないでいたため、幕府はますますヒステリックに、各藩にキリシタンの摘発を命じた。百姓の奉公人についても主人が宗門改めをすること、五人組が中心となり、一人ひとりについて檀那寺の寺請証文を作成して提出すべきこと、年季奉公人(季節労働者) についても、国もとへ所在、檀那寺、宗旨を問い合わせし、身元がはっきりしている者だけを雇うこと、もし奉公人がキリシタンであることが判明した場合は、主人も同罪となることなどが徹底され、誰もがキリシタンのあぶり出しに躍起となった。寺請証文一枚に人間の命がかかっているのだから。寺院の役割はことのほか大きかったのである。つまり、檀家制度の本質とは、寺が幕府の“出先機関”の機能を果たすことにあった。幕府や藩は、檀家制度を通じて領民や町民を把握していたのである。大名などの領主は納税台帳をもっていて、それによって領民や町民を把握していたのではないかと思う人もいるかもしれないが、日本人の大部分は実は税金を払っていなかった。直接税金を払っていたのは農民とごく一部の商人だけで、武士も町人も小作人も税金は払っていなかった。だから、その人の身元を証明するのは寺請証文しかなかったわけだ。このように、日本人全体が、自分の住んでいる地域の寺に所属させられたわけだが、それは制度上のことであって、その寺が所属する宗派の宗旨や教義を信じたからではない。だから、檀家といっても特定の宗教を信仰しているという意識はほとんどもっていなかったのである。


  『なぜ、人は宗教にすがりたくなるのか』[17] 寺請檀家制度は、主にキリシタンの摘発のために制定されたものであり、人々の宗教への関心とは全く関係がなく、それは形式だけのものであったというのである。寺請檀家制度はすべての日本人に対して行われた制度であった。つまり、田畑や家屋敷などの家産を持つ百姓はもちろんだが、ろくに家産などもたない水呑みと称された人々にまでその対象となったのである。その結果、「家」という意識が発生した。では、「家」という意識はどのようなものであるのだろうか。「家」は、家族とは全く異なる社会制度である。家族は自然発生的な集団であるが、「家」は、あくまでも特定の歴史的条件のもとで成立する制度なのであり、一四世紀から一六世紀にかけて成立したといわれる。「家」は、家業と家産をもつ「生活の拠点」であり、「社会的活動の一つの単位」であり、なによりも、「家」の永続が 「家」を構成する人々の最大の願いであったところに、大きな特徴がある。


  『江戸時代とはなにか』[18]  人々は、子孫に相続させる財産があっても、またなくても、それとは無関係に、「家」の永続を願ったのである。「家」の永続を願うことは、かつて「家」のメンバーであった祖先をも大事にするということである。彼らはその「家」意識にしたがって、自分たちの祖先祭祀を仏教式でとりおこなうようになったのである。 寺請檀家制度が確立した結果、人々は近くの寺院に所属させられる。その寺院には過去帳というものがあり、それにしたがって住職は祖先の何回忌と子孫に知らせ、子孫は住職を招いて祖先祭祀をとりおこなう。その中で「家」という意識が発生してきたのは不思議なことではなく、ごく自然なことのように思われる。その「家」という意識にしたがって人々は祖先祭祀をしてきたのであり、また、その祖先祭祀は所属していた寺院によってなされてきた。つまり、仏教式で行われていたのである。もちろん祖先祭祀には葬式も含まれており、人々は家族が死ぬと仏教式の葬儀を行った。そのことで「家」の永続を願ったのであろう。このようにして「葬式仏教」は成立し、定着していったのである。 ここで、そもそも葬式とは何なのか、また何のためにやるものなのか、葬式の役割を明らかにしたい。ひろさちや氏によると、葬式には三つの役割があるという。一,死体の処理 二,霊魂の処理 三,遺族の心の整理  もちろん、一番目の死体の処理は大事ですが、これについては今は葬儀社がやってくれますし、昔は地域共同体で、みんなで手伝って野辺の送りをやって死体を処理したわけです。だから、死体の処理については昔から現在まで、あまり問題なく処置されてきていると思います。 (略)  次は霊魂の処理です。これは、わたしとしてはお浄土を信じることが大事だと思っています。この場合のお浄土というのは、 ――即得往生――  です。「即得往生」とは、死んだ瞬間にお浄土に行っているということです。


 『お葬式をどうするか』[19]  そして、三つ目の、「遺族の心の整理」であるが、そのためにこそ葬式はあるべきであり、実際にそうなのではないだろうか。葬式というと、普通、亡くなった人のために執り行われるものだと考えられがちであるが、実はそうではなく、残された人々のためのものなのである。大事な人を亡くしたとき、残された人々はただ呆然となり、生きる気力さえ無くしてしまうものだ。しかし、彼らはその愛する人の死という大きな苦しみを背負って、それでもなお生きていかなければならないのである。葬式とは、愛する人の死という大きな苦しみを乗り越えるための大切なものであるといえる。 また、かつての日本家庭では三世代同居が圧倒的に多かったため、じぶんの祖父母の死に立ち会うのはごく当たり前のことであった。そのうえ、現在のように医療が発達していなかったため乳児の死亡率が高く、自分の兄弟が幼いころに亡くなっていることもあった。また、自分の親を早くになくすことだってあったのである。しかし、戦後の日本は核家族化が急速に進み、祖父母と一緒に暮らすことが少なくなったし、医療が進歩した結果、日常生活の中で死と直面する機会が激減したのである。このような時代の中で、葬式というものは死と真っ向から向き合わざるを得ない唯一の場であるとも言える。現代の人々は死に対する漠然とした不安や恐怖をもっているのにも気がつかないくらいに毎日を忙しく生きている。また、若いうちには自分が死ぬなんてことは普通考えないだろう。そのなかで、家族や友人の死が突然やってくると、人は自分の死への不安や恐怖と真剣に向き合わざるを得なくなる。それが葬式のときなのである。 そもそも宗教とは、人間にとって最大の苦しみである「死」をどうするのか、その苦しみから解放されるにはどうしたらよいのか、を考えるところから始まっている。それは、仏教に限らず、キリスト教、ヒンドゥー教、その他の宗教でもその始まりは おなじなのである。人間は「死」を考えることができる唯一の動物である。他の動物に「死」を考えることはできない。しかしまた、それによって「死」への不安・恐怖 などさまざまな苦しみが発生することは否めない。その苦しみを乗り越えるために宗教があり、その一つとして仏教が存在しているのである。つまり、宗教は生きている人間のために存在しているということである。 このように、葬式とは宗教のそもそもの始まりである。「死」という人間の最大の苦しみを乗り越えるということと深く関わっているのである。あるいは、宗教の本来の目的をそのまま行うものと言っても言い過ぎではないだろう。これこそ宗教のあるべきすがたであるともいえるのである。一般に、「葬式仏教」という言い方で、人が死んだときにだけ仏教にすがると馬鹿にしているところがあるが、それこそが最も重要なのであり、自分にとって大事な人がなくなった、あるいは、自分の死への不安や恐怖と向き合った、まさにその時に、仏教は、あるいは宗教とも言い換えることができるが、必要なのである。竹内氏の葬式仏教に対する批判は、市場原理で考えたときのものである。葬式というものを竹内氏のいう「市場」すなわち金と利益だけで片付けることが本当にできるのであろうか。竹内氏の批判には人の精神的な部分が含まれていない。精神的な部分を踏まえた上での批判ならばこちら側も考えるべきところがあるのだろうが、その一番大事な部分が少しも考えられていない竹内氏の市場原理での宗教批判は受けることができない。そもそも完全に金と利益だけで考える市場原理 で、どこまでも自分というものを見つめていく宗教は語れないのである。そういうわけで、人が死んだら必ずと言っていいほど葬式を行う日本人が無宗教であるとは到底、考えられない。つまり、日本人が無宗教であると言い切ることはできないのである。


  結論  第一章では、様々な統計から日本人は自分のことを「無宗教」であると考えていることが分かったが、それは他人と違っているように思われることをきらう日本人の精神的傾向であることが明らかとなった。しかし、日本人は自分のことを「無宗教である」と考えていながら、同時に初詣や彼岸の際の墓参りなどは欠かさないという矛盾が出てくるが、これは、日本人は古くから「自然宗教」の信者であったのであるが、「自然宗教」が「宗教」であるという認識がなされていないために起こっている矛盾であることが明らかとなった。また、人々の生活が現世中心になったことも日本人が無宗教であると考えられている要因として挙げられるが、それは一つには、中世に入ってきた儒教の教えが、近世に入り人々の生活の間にまで浸透したためである。「自然宗教」として祖先崇拝という概念が備わっていた日本人には、同じように祖霊を大切に思う原儒を母体とする儒教は受け入れやすかったからである。二つめには、近世に入り生産力が高まるに伴い発生してきた市場社会の経験である。その結果、人々の関心の対象は現世中心となったのである。このように日本人は儒教の影響を受けて、来世の救済よりも現世利益を重視するようになったのであるが、その根底には祖霊を大切にする「自然宗教」があったことは無視することはできないのであり、日本人は意識するにせよ、意識しないにせよ、自分の家の祖霊に対する敬いの気持ちを持ちつづけ、それが具体的な宗教活動に現れているのであるということが明らかとなった。


  第二章では、仏教すなわち「創唱宗教」には必ず備わっている「戒律」を問題とし、「戒律を守らないことが無宗教である」理由となるのかという問いに対して、中世で既に法然・親鸞・蓮如の思想によってその問題は解決されていたことが明らかとなった。彼らは仏教を「俗」の世界まで引きおろし、その結果、仏教の本質を「聖」 「俗」と区別される世界にとどまらないものであると宣言したのである。戒律を守ら ないことが日本仏教の堕落であるといわれるが、実はそうではなく、戒律にとらわれないところまで行き着いたのであって、戒律を守らないことで日本人が無宗教であるということはできないのである。


 第三章では、「葬式仏教」が日本仏教の宗教産業化の筆頭であるという批判に対し、「葬式仏教」はそもそもの仏教の目的と深い関わりがあり、これこそが宗教の本来あるべきすがたであることが明らかとなった。江戸時代に確立した寺請檀家制度が仏教の堕落に拍車をかけたという見方があるが、一方では、人々に「家」という意識を浸透させ、その結果として仏教式の先祖祭祀がなされるようになったのである。葬式は遺族が苦しみを乗り越えるためにも必要であり、人が「死」を向き合う場でもある。本来宗教は「死」という人間最大の苦しみを乗り越えるということから始まっており、それと深く関わっている葬式は宗教のあるべきすがたそのものともいえるのであり、人が死んだら必ずといっていいほど葬式をする日本人が無宗教であるとは言い切れないのである。


 このように、第一章から第三章まで「日本人は果たして無宗教であるのか」という問いに対して「宗教意識」「戒律」「葬儀」という面から考察してきたわけだが、それに対する答えを一言でいえば「日本人は無宗教ではない」ということになる。批判される事柄には必ずそこに行き着く過程や理由があり、真にそれを理解した上でのみその批判は許されるべきである。日本人は一見無宗教に見えるが実はそうではなく、もともと日本に備わっていた「自然宗教」を母体とし、仏教もそれを元にしかるべき変化を遂げた結果、現在の日本仏教の形態が出来上がっているのであり、日本人は無宗教ではないのである。科学的思考が圧倒的な勢いを見せる現代であるが、その科学でさえも解明できないものは存在する。また、政治・経済・道徳でも同じように解明できないものは存在する。科学・政治・経済・道徳というものは、そこに社会という共同体がなければ意味をなさないものである。つまり人間が自分という一人の存在になったときには必要のないものなのである。人間がたった一人の自分と向き合う時、必ず避けては通れない問題が生じる。それが「死」である。科学・政治・経済・道徳では「死」「死後の世界」というものは説明できない。その問題に取り組んだのが宗教なのである。宗教は、「死への恐怖」「死後の世界」への不安という人間最大の苦しみと真っ向から向き合っているのである。歴史的に見れば宗教も表面に出ている部分は時代とともに変化してきたのであるが、その根底には釈尊の教えという普遍的なものが流れているのである。宗教がなくならないのはそのためであり、その役割を担うのも宗教であるということができるであろう。


参考文献表
阿満利麿 [1996]『日本人はなぜ無宗教なのか』 (ちくま新書085,筑摩書房, 東京)
小田晋  [2000] 『なぜ,人は宗教にすがりたくなるのか』 (三笠書房,東京)
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竹内靖雄  [2000] 『<脱>宗教のすすめ』 (PHP新書099,PHP研究所,東京)
塚本善隆  [1983] 『法然』 (日本の名著5,中央公論社,東京)
ひろさちや  [2000] 『お葬式をどうするか―日本人の宗教と習俗―』 (PHP新書123, PHP研究所,東京)


[1] インターネット(http://www.sekise.co.jp/sougi/institut/dw/199907.html) を参照せよ.
[2] 小田[2000:108]を参照せよ.
[3] インターネット(http://www.sekise.co.jp/sougi/institut/dw/199907.html) を参照せよ.
[4] 阿満[1996:11]を参照せよ.
[5] 阿満[1996:15-16]を参照せよ.
[6] 阿満[1998:32―33]を参照せよ.
[7] 阿満[1998:36―37]を参照せよ.
[8] 加地[1990:53]を参照せよ.
[9] 久保田[1997:59-60]を参照せよ.
[10] 竹内[2000:17]を参照せよ.
[11] 塚本[1983:361-362]を参照せよ.
[12] 浄土真宗教学研究所[1998:8―9]を参照せよ.
[13] 浄土真宗教学研究所[1988:1086-1087]を参照せよ.
[14] 竹内[2000:22-23]を参照せよ.
[15] 阿満[1996:49-50]を参照せよ.
[16] 阿満[1996:53]を参照せよ.
[17] 小田[2000:92-93]を参照せよ.
[18] 阿満[1996:56]の尾藤[1992]の引用を参照せよ.
[19] ひろ[2000:182―183]を参照せよ

布施


押し付けがましい人は多いものです。



 「あれだけやってあげたのに」「俺が面倒見ている」「俺のおかげで」・・・。さて皆様はいかがですか?


 布施の心は、やりっぱなしなのです。見返りを一切求めないのです。


 お坊さんに差し上げる財施の他に、「和顔施」慈悲心にあふれた表情の施し。「慈眼施」柔らかいまなざしの施し。「言辞施」真心あふれる言葉の施し。「心施」心のやさしさの施し。「身施」自分の身体を使ってできる施し。「床座施」床をしいて差し上げる、席をお譲りする。「房舎施」一夜の宿をお貸しする。雨宿りに我が家を使って頂く。


 これを仏教では無財の七施と言って最高の菩薩行、つまり仏様を信じる人間としての最高の心構えとしているのです。押し付けがましいあなた、それが煩悩のもとですよ。

少欲知足

 イソップ物語に、こんな話があります。犬が池のほとりで骨をくわえていました。犬は、ふと池の面を見ると、そこに自分がくわえている骨が目に入りました。犬はそれが欲しくなり、ワンとほえました。するとその時、骨は池に落ちて沈んでいきました。


 普段、あれが欲しい、これが欲しいと望んでいる人は、まさしくこの犬であります。自分はすでに持っている。しかし他人のことをうらやましがり、それを欲しいと思います。そうして苦労して手に入れますが、かわりばえせず、結局どちらか一方を捨てることになります。今、家庭で不要品となっているものの一番多いのは、パソコンだといいます。メーカーが三ヶ月ごとにモデルチェンジをし、いかにもいいように宣伝して売ってきました。しかし結局は従来と変わらず、もらい手もなく、家でじゃまものとなっています。




骨をくわえた犬は、その骨だけで十分だったのです。


 仏教では少欲知足を教えます。欲を少なくして、足りていることをわきまえる、という意味であります。物があふれている現在、この犬のようにならないようにしたいものですね。


同じことは、人生にも当てはまると思います。


世の中には、幸せはどこにもあります。


しかし人はこう考えます。


「その大学に入らなければ幸せにならない」「その人と結婚しなければ、幸せになれない」


このように思う人は、たとえそうなったとしても、幸せにはなれないのではないでしょうか。そこには過大な期待があり、幸せを得ようという欲があるからです。従ってそれが期待に反した時、幸福感は一気にしぼんでしまいます。少しの幸せでいい、それで十分と思っていると、幸福感が持続します。やはり少欲知足の心が望まれます。


「優しい言葉をかけてくれた」「パートの時給を十円あげてくれた」


このような謙虚な心を持つ人は、結局幸福な人生が送れると思います。




 現代はカード時代であり、日常生活での支払いはカードで済ませることが多くなりました。大手のスーパーや百貨店などはその店独自のカードを発行し、それを使えば特典があるなどして、購買欲を高めようとしています。


 カードでの買い物は、「財布の中身と相談して」という気持ちよりも、「まあ、いいか」という気になるもので、それが店側の本音であります。


 企業というのは、必要なものを売るという姿勢では成り立たず、不必要なものをどう売るか、というのが当然となっています。それ故テレビや新聞などで繰り返し宣伝し、買わそう買わそうとするのですが、その姿勢にカードがぴったり合うわけです。何となく欲しい気になり、すぐにお金が出ていかないから、「まあ、いいや」という気になり、買ってしまうのです。


 仏教では「少欲知足」、つまり欲しいという欲望を少なくして、足りることを認識する、ということを教えています。欲しい、足らないという意識が煩悩を起こし、仏道の妨げになるからです。現代のカード時代は、「少欲知足」の反対の姿勢をとらせるものであり、時に応じて一定期間カードを使わない、とするのも必要かもしれません。欲しいものは買わない、必要なものだけを買う、という姿勢も必要だと思います。


 かつて井戸端会議という言葉がありました。主婦たちが町内のたむろしやすい場所で、あれこれとしゃべくる姿が見られましたが、今はあまり見られなくなりました。しゃべくりは相変わらずなのですが、場所が井戸端ではなく、喫茶店などに移っているのです。また、ケータイも必需品となっていますし、ともかく、人とのつき合いにはお金がかかるのが当たり前になっております。人とのコミュニケーションは大事なのですが、このつき合い方にも「少欲知足」の心が、現代では必要と思われます。


 ある川柳の先生が、引っ越し祝いに呼ばれ、歌を頼まれました。その先生はこう詠みました。

「この家の、周りを囲む貧乏神ー」



こう詠んだところでその家の主は、さすがにむっとした顔をしましたが、先生は続けてこう詠みました。

「出るに出られぬ、福の神」


家の主の顔はすうーっとなごみました。



 現代は家の外に出ると、お金を使わせようとする貧乏神だらけ、家の中には家族団らんという福の神がいるのであります。

地蔵様の話



その昔、お釈迦様は、自分の後を誰かに受け継いでもらいたい。私の代わりに、説法をしてくれる人が欲しい、と考えられました。それと言うのも、今後五十六億七千万年が経なければ、お釈迦様の代わりに説法をし、人々の良き相談相手となってくれるお方、つまり、弥勒菩薩様が、この世におでましにならないからであります。


 いくらお釈迦様が気が長いからといっても、五十六億七千万年は少し永すぎます。永すぎるのはよいとしても、五十六億七千万年の間、心の支えとなる教えを求める人達へのサービスが出来なくなってしまいます。五十六億七千万年の間、何事も無く、平穏な毎日を我々が過ごせれば問題は無いわけでありますが、そうはいきません。


 貪瞋痴の三毒、いわゆる「むさぼり、いかり、おろかさ」が原因となり、いろいろな事がおこります。少し回りを見ただけでも、学校での暴力、いじめ、家庭での親子の問題、誠実な行動力の欠落など、また親の方にも問題が無いわけではありません。知らず知らずの内に、社会に引っ張られてしまいます。例えば、子供達への最高の贈物である、大自然の破壊、ゴミは出さない工夫が必要と知りつつも、皆がそうなんだからと右へ習えしてしまう生活、こういった社会現象をお釈迦様は予測されていたんでしょうか。五十六億七千万年の間の説法や、心の悩みの相談相手としてお地蔵様を選ばれた訳であります。そのお地蔵様のお姿は、頭を丸めて、ちょうどお寺のお坊さんの形をしております。ひょっとしたら、お釈迦様は、お坊さんをさして、


 『地蔵菩薩よ、私の代わりに、弥勒菩薩がお出ましになるまで、宜しく頼むよ』
 『ほら見てごらん。八万四千の教えも、用意したよ』


と言ったのではないでしょうか。


 お寺には、八万四千の法門が用意されております。是非この沢山の教えを利用し、実生活に、また家庭内に取り入れ、心の安らかな毎日を過ごして欲しいと念願しております。

生命の尊さ

九月二十一日の新聞に、また、鹿児島の中学生が、「おれが死ねばいじめかいけつ」といじめが直接の動機で死を選んだと報道されています。こうした中学生のいじめによる死者が、昨年、九州だけでも四月に福岡県豊前市の中三男子と長崎市の中二女子、五月に鹿児島市の中三男子と続発、今年に入っても一月、福岡県城島町の中三男子が自ら命を絶った。それに、鹿児島ではいじめた子の父親が自殺している。どうして、こんなに簡単に命を粗末にするのでしょうか。 


これらの命を落とした人々は皆、いじめが原因です。最近の人間社会の生活様式の変容がいじめの原因を作っているとも言われています。家庭内の対話不足も一因でしょう。心に不満を持っている子供は、そのはけ口を弱い子供に求めています。自分の気持ちの満足だけを求めて、自分が受けている心の圧迫を容赦なく弱い子供に叩きつけます。迷惑するのは叩きつけられるほうの子供です。


だからといって、自殺で解決しようとするところに問題があるようです。


 ところで、物豊富な時代において、今求められているのは心の時代と言われています。心を深く極められたのが天台大師。人間には生命と寿命、使命の三つの命があるということです。授かった命、それを全うするのが寿命、そして、その命をどう使うかが使命であるといわれています。仏様の力によって生かされ生きているのが我々です。生命の大切さ、生命の尊さに気づく事が大切ではないでしょうか。これから、その有為な人生を歩もうとする若者たちが紙切れのように自分の命を捨てていく現状を我々大人の手でなんとか阻んでいかねばならないと思います。子供たちにとっては大人のモデリングというものが大きな意味を持ちます。大人の我々がその生き様を子供に示して、たくましく細心に生き続けることを教える必要があると思います。そして、また、自分の前途は自分で切り開いていく者だと言う強い意志と信念を植え付ける事も大切です。


 かけがえのないたった一つの命、地球上でたった一つの命、どんなに金をかけても、どんなに素晴らしい宝を以てしても何万年、何億年の年月を重ねても再び現れる事のない命、その命を守り、その命をより値打ちのある命に輝かせるよう導きたいものです。また、いつも他を意識し、他を恨む事なく慈しみの心を以て他の人のために生きる事を心がける事も大切なことです。そうすることが、仏様のご恩に報いる事になると思います。

一口法話集より

本当の幸福


『健康は最上の利益、満足は最上の財産、信頼は最上の縁者、心の安らぎこそは最上の幸福なり』


 これは心の安らぎを説かれた言葉です。



 お釈迦様は、八十歳という高齢に達するまで教えを説かれるため歩き続け、托鉢しつづけたお方です。そうした力がどこからきたのでしょう。先ずは、第一に健康であることでした。「お釈迦様がお亡くなりになった時、そのお足は、象のようだった」と弟子たちが語るように、その脚力も素晴らしかったに違いありません。

 「健康は、人間に最もらしい利益をもたらしてくれる原動力である」といわれる言葉には、お釈迦様の実感が込められていると思います。




『満足は、最上の財産』



 これは、インドの諺になっているそうです。足ることを知ること、それが最も素晴らしい財産だといっているのです。尽きない欲に振り回され、不満を抱いているよりも、少しの欲で満たされている人の方が幸せだし、安らいでいることが出来るという教えです。



『信頼は、最上の縁者』



まさにそうです。いくら友をもち、親類が沢山いても、信頼感をもつことができなければ、ただの他人と同様なわけです。信頼する人がおれば、一人でも充分です。縁者の数よりも、信頼という関係が大切なのです。

 最後に、




『心の安らぎこそは最上の幸福』



であるとおっしゃっています。優しい妻や、可愛い子供に囲まれて生活していても、自分に安らぎがなければ、家族の意味が消えてしまい、また、自分に安らぎがなければ、家族も落ち着きません。それではいけませんね。

 皆さんも、人間の本当の幸福について、考えてみてください。

尊厳の海に きらめく愛



「人間らしく死にたい」「自宅で死を迎えたい」と願う人が増えているという。が、厚生省が集計した「健康マップ」によると、自宅で息を引き取る70歳以上のお年寄りは4人に1人。都会になるほど`病院死’が目立つ。


 人はだれでも死について考える。生がある限り、死は確実にやってくるのだから・・・


 東京大学の岸本英夫博士は、死に対する考え方を4つに分けて論じている。


 1つは、死に反抗して生命を延ばそうとする考え方だ。中国の不老不死思想や近代医学がこれに入る。2つ目は、来世を願うこと。3つ目は自分に代わるものを残そうとする行為。芸術作品や社会的名声などがそれに当たる。そして4つ目は、生死(時空)を超脱して悟りの境地に達する。禅の教えである。


 放浪の俳人、種田山頭火の句に「生死の中の雪降りしきる」というのがある。禅僧が見る`生死の景色’とはこんな景色だろうか。


 しかし、生死を悟れる人は少ない。"案ずるより産むが易し"というが、"案ずるより死ぬが易し"という心境にはなかなかなれない。


 死とは何か。その答えは人によって違うだろう。あるいは答えがでないまま死を迎える人も多い。


 フランスの作家セスブロンは死の直前、こんな文章を残している。「死というのは多分海みたいなものだろうな。入っていくときは冷たいが、いったん中に入ってしまうと・・・。そこは永遠の命の海で、陽光(ひかり)がきらめくように愛がきらめいている」。


 今年もお盆の季節が巡ってくる。(もう過ぎたがw)「様々の施物を添えて三宝(仏・法・僧)に供養すれば、過去七世の父母は餓鬼の苦を免れる」という。


 日本は外国に比べて無宗教の国だとよく言われるが、お盆に家族や親戚など身近な者が集まって先祖の霊を祭る風習は、長い歴史の間にろ過された日本人の生活観のようなものが感じられる。


 古来、人類は死者を葬る儀式や祭礼を続けてきた。それは個人を送るセレモニーであり、一つの人生を完結させるメモリアルでもある。

合 掌



参考
種田山頭火(たねださんとうか)  俳人。山口県の人。早大中退。出家して全国を放浪。1882-1940
三宝(仏・法・僧) 仏・・仏教の教主である仏 法・・仏の教え 僧・・仏の教えを奉ずる人々の集団
餓鬼(がき)  痩せ細って、のどが細く針の孔のようで、飲食することが出来ない。常に飢餓に苦しむ。

無心・我・常に切なり



経典に、「我、ここに於いて切なり」という言葉がございます。その時々を一心に打ち込む、切々と生きる、という意味であります。大リーグにいったイチロー選手は、相変わらず好調な成績を残しています。彼が天才といわれるほどの選手になったのは、人一倍の努力と共に、学生時代に正月元旦を除く毎日バッティングセンターに通っていたことがよく知られています。来る日も来る日も、いかにバットのシンでボールをとらえ、強く振りぬくことを追い求めていたのでしょう。まさに「ここに於いて切なり」の心境だったのでしょう。


名選手に云わせると、野球の打撃というのは、要はバットのシンでボールを当て、遠くに飛ばせばいい、そのためにはボールをよく見て強く振ればいい、それだけなんだ、と云っております。


巨人に原選手が入団した時、ある打撃コーチは彼のフォームを見て、「二〇幾つか直さなければならないところがある」と云ったそうです。この話を聞いた野村克也氏は、そんなコーチがいるから選手が打てなくなるのだ、と書いています。


昔、パリーグに南海というチームがありました。今のダイエーホークスの前身で、ご承知の方も多いと思います。その南海全盛時代に、何度も盗塁王に輝いた広瀬という選手がいました。


広瀬選手に衰えが見られた頃、藤原という足の速い選手が入団してきました。春のキャンプの時、監督は広瀬に盗塁のコツを藤原に教えてやってくれと云いました。広瀬は藤原を一塁ベースに連れて行き、なにやらやっていました。程なく藤原が戻ってきたので「どや、勉強になったやろ」と云うと意外にも「よくわかりません」と答えるのです。なぜだと聞くと、藤原は広瀬の教え方を繰り返してみせました。広瀬はこう教えたそうです。「盗塁っちゅーのはなぁ、こうリードをとるやろ。ピッチャーがセットに入るやろ。投げたと思ったらパーッと行けばええんや」


いかにも天才広瀬らしい感覚だと当時の監督の野村氏は書いています。(「勝者の資格」野村克也)


原選手のバッティングフォームの話にしろ、広瀬選手の盗塁の話にしろ、複雑に云えばいくらでもいえるのでしょうが、突き詰めると単純に戻ります。盗塁術で言えば、要は走る決断と脚力だと、広瀬選手は言いたかったのでしょう。これもまた「ここに於いて、切なり」であります。


このことは、信仰の道でも同じことが言えると思います。お釈迦さんは出家した後、各地の宗教者を訪ね、また、苦行を繰り返しました。しかし六年間それを続けても悟りを得ることができず、最後に苦行を捨て禅定を行いました。そうして菩提樹の下で悟りを得ました。


日本には仏教の宗派がいくつもありますが、その求めるところは同じであり、とらわれの無い心、安心立命の境地を求めることであります。


広瀬選手は盗塁について、「ピッチャーがセットに入るやろ、投げたと思うたらパーッといけばええんや」と云いました。


物事の結果というのはわからない。ただ己が決断し、後は疑わずに走る、信心の道も全く同じであります。仏の道とは、ただ仏を信じるという単純なことに尽きるのであり、「信じて、切に生きる」と言うことであります。

落花の風情

ものを大切にするということは今日でも立派に通用する徳目です。日本人なら子供の頃から、

  「ご飯粒をこぼすな。お茶碗を壊さないように気をつけろ。」


などと親から何度となく注意されながら育ってきたはずです。


 ところが、すべてのものには、




 「かたちあるもの、いずれは滅す。」



という性質がありますし、そこへもってきて、人間ときたら不完全な存在ですから、いくら注意してもついうっかり過ちを犯すことがあります。そんな時、


「あれほど物を大切にしなさいといったのに、壊してしまったじゃない。二度と同じ失敗をしないように気をつけなさい。」

という注意事項があり、そのあと、


「ごめんなさい。」



ということばでしめくくって一件落着というケースが多いようです。


 物を大切にするために細心の注意をはらうことは勿論必要なことですが、壊れてしまった時、そのものに対してどのような対処をするか、対処の仕方を学ぶことはもっと大切なことだと思います。


 『千利休』の孫に、『千宗旦』という大変すぐれた茶人がいました。どこがすぐれていたかといいますと、こんな逸話があります。


 京都の正安寺の庭に、『妙蓮寺』という名の大変みごとな椿が花を咲かせましたので、そこの住職は、一枝切って宗旦の所へ持って行くように小僧に命じました。小僧は、世にも希な椿ですので、ことさら注意深く持っていったのですが、なにしろ椿の花のこと、途中でポロリと花が枝から離れてしまいました。小僧は、

  「とんでもないことをしてしまった。」



と途方にくれましたが、とにかく宗旦の所へ行ってあやまろうと左手に花、右手に枝を持って行ったのです。それを見た宗旦は、あやまる小僧を制して、咎めるでもなく、茶室に入るや、今まで置いてあった床の間のものはすべて片付け、あらたに利休作の花器を柱に掛けて、そこに枝を差し、花は床の間に何気なく置いて、落花の風情をかもし出させたのでした。そして、そこに小僧を招じ入れて、懇ろにねぎらったということです。

節分



二月三日は「節分」でございます。節分というのは、季節の移り変わる時をいいまして、正しくは、立春・立夏・立秋・立冬の前日の事をいうのでありますが、現在では、立春の前日のことを指しておりまして、その夜を「年越し」といい、門口にヒイラギの枝にイワシの頭を刺したものをおき、日暮れになると豆を撒く習わしがあります。


 この日で、大寒が終わって春の季節に入るわけで、節分の翌日が立春となるわけであります。


 山形県の方では、「寒ばなれ」、飛騨の白川地方では「節替わり」というそうですが、「節分」の意味をよく現しております。


 とにかく、節分の日には、鬼を払う行事が行われておりますが、最近では、やらない家庭が多くなったということで残念でなりません。ご主人はご主人なりに、子供は子供なりに、それぞれの願いを込めて、大声で豆を撒くこの行事は、本当に家庭の行事としては、実に微笑ましいもので、何時までも残しておきたいのもだと思います。


 鬼というものは、勿論、実在の動物ではありませんが、節分によく出てくる青鬼・赤鬼・黒鬼・は、それぞれ人間の三つの悪い心を形どったものだといわれております。


 それは、「欲深く、飽きずに貪ること」「自分の心に添わないものを怒り、恨むこと」「言っても仕方の無いことを言っては嘆くこと。善悪の判断がつかないこと」、これを仏教では『三毒』といって、私達の心に害毒を与える煩悩、即ち「貪」・「瞋」・「痴」の事を現したものだと言われております。


 私達には、多かれ少なかれ、これらの「むさぼり」・「いかり」・「おろかさ」の心を持ち合わせているわけですが、私達が持ち合わせている悪い心、醜い心を鬼に譬えているわけです。

    『鬼は外!福は内!』



ということは、鬼に向っていう言葉ではなく、自分自身に向って、或は、自分の家族に向って、そういう悪い心を捨てさせようとする気持ちから発展してきたとも言われております。


 我々人間の心の中には、誰でも「仏のような心」と「鬼のような心」が同居しております。「鬼の心」は追い出して、「仏の心」=「仏心」を育てたいと思っておりますし、そういう心掛けで、豆を撒きたいものだと思っております。


 また、別な説としては、昔、聞鼻(かぐはな)という鬼がいて、節分の夜に家々を回って、女の子を奪い、食べてしまうという伝説からこの行事が行われたということです。この鬼は、イワシの臭いが嫌いであるということから、戸口にイワシの頭を刺して鬼を防いだのでしょう。

忘己利他

「悪事を己に向け、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」 これは、約一二〇〇年前に伝教大師・最澄さまが山家学生式の中で言っておられる言葉ですが、今聞いても何の不自然も感じないし、新鮮にさえ感じます。


 しかしながら、現在に日本社会を眺めてみますと一人ひとりが自分の事のみを考え、なかには自分の幸福と欲求を満たす事を第一とし、その為には少しくらいは他人をきずつけても仕方がない、そんな考えをもっているひともいるのではないでしょうか。また、何か問題が起こった時には「私は悪くない」と責任転化してしまうことはないでしょうか。


 ある家で、こんな事がありました。御主人が仕事からかえってカバンを玄関の所に置いたまま風呂に行こうとしたところ、「パターン!」と大きな音がしました。おじいさんがカバンにつまずいてころんだのです。その時、ご主人は奥さんに「俺が帰ったのだから、カバンはかたずけておけ」と言い、奥さんは「私は、台所仕事をしていたので、あばあさんが近くにいたからかたずけてくれればいいのに」と言い、おばあさんは「まだ明るいのに、おじいさんは年をとって目が悪くなったのかね」と言いました。


 みなさんはどう思いますか?この家の人々は誰一人悪い人がおりません。「私は悪くない、他の人の責任です。」と言ってます。こんな家庭に本当の幸せがあるのでしょうか?社会生活についても同じだとおもいます。誰か一人でも「ごめんなさい。大丈夫ですか?」と一言言えばいいのに。と思いませんか?でも自分自身に置き換えてみると知らず知らずの内に同じような事があるのではないでしょうか。これでは、本当の家族や仲間が出来ません。


 みんなが楽しく、笑い声につつまれ、安心して暮らすためには本当に信頼できる家族や仲間を得ることです。ともに喜び、悲しみを分かち合う家族・仲間がいてこそはじめて幸せを実感できるのではないのでしょうか?


いくら物質的に恵まれても、精神的な満足感がなければ、真の幸せとはいえません。「己を忘れて他を利する」という、伝教大師の精神を毎日の生活に活かし、充実した毎日・幸せな日暮らしをして頂きたいと思います。

※一口法話集より

不滅の法燈

一日に一度はお仏壇で、月に一度は寺詣り、年に一度は本山詣り、一生に一度はインドの仏跡参拝を・・・これが私のモットーであります。


 お陰様にて、私も二月四日より十五日まで、あこがれの聖地インドに縁あってお詣させて頂きました。主たる行事と致しましては、比叡山開創一二〇〇年を記念して「禅定林」というお寺がインドに完成し、その落慶法要のお手伝いであります。その行事の合間にお釈迦様の足跡の一端を偲び、恋慕を懐いて渇仰心の炎を激しくしたいと思います。奇しくも、日本に帰る日が二月十五日の涅槃の日であります。二五〇〇年前に八十才になられるお釈迦様が、沙羅の樹林で「自灯明、法灯明」即ち、自分自身をより所として他の物をより所とするな、そして私が皆に説いた教えをより所としなさいといって入寂されたのであります。後に続く私達のために、生きる指針を、つまり法をお釈迦様は説いてお示し下さったのであります。その最期に灯明、即ち、ともしびかかげなさいと仰せになったのであります。そのことを、伝教大師は常に思われて、ご自作の仏様の前に灯をかかげて

『あきらけく 後の仏の御代までも 光りつたへよ 法のともしび』



と詠まれたのであります。そこにやはり信仰の原点がある様に思われます。


 比叡山の不滅の法灯は、一二〇〇年の間、点してきた。そのこと事態が尊いのでなく、その理想の灯をシンボルとして少しでも伝教大師程の御精神に近づこうと毎日毎日努力して受け継がれて来た、そういう「ともしび」であるから尊いのだと思います。


 皆様も仏壇で御灯明をあげておまいりの時には、そういう信念でもってお明を点して頂けたら、いくらでもお釈迦様のお心にふれさせて頂けるものと確信するものであります。

来迎和讃の物語 



来迎和讃は、浄土に往生しようと願う人を、阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩が迎えに来られることをたたえた和讃です。


 作者は、比叡山の恵心僧都(942から1017)で、日本念仏の基礎を作った人です。


 阿弥陀様が、一切の衆生を見捨てないで救いとろうとされる光明は、念ずる所を照らします。観音菩薩や勢至菩薩は、声を尋ねて迎えに来られます。


 汚辱と苦しみに満ちた娑婆世界は、避けなければなりません。避けないときっと苦しみの海を渡るでしょう。安らかで心地よい極楽の世界を願いましょう。願うならば、浄福な永遠の世界に生まれるのです。


 草庵は、ゆうべの嵐はおさまり、極楽浄土の池は澄みきっており、黄金など七つの宝でできている七重の荘厳な並木には、さわやかな風が吹いています。


 臨終の時が来たら、正しい心の落ち着きを持ち、西を向き頭を垂れて手を合わせ、浄土へ往くことを願い求めましょう。


 耳をすましますと、西方極楽の浄土の方に、仏の為の伎楽や歌詠が、ほのかに聞こえます。緑の山の端には、はるか遠くから光り輝いているのが見えます。このとき、身も心も安らかで、念仏を一生懸命唱えていたことがありのままに現れて、仏の発する光が自分の身体を照らしますと、今までのいろいろな罪が消えて無くなってしまいます。


 しばらくしますと、その光が近づいていき、仰ぎますと阿弥陀様です。表情は円満なお姿で、晴れている空に緑色の頭の頂が現れて、眉間からは白い光が出て輝いています。


 お供の管弦歌舞の菩薩は、雲の間に袖をひるがえしたおられ、荘厳にするための旗や供花は風にたなびいています。


 光の中には、観音や勢至等の菩薩様がたくさんおられ、諸菩薩様からはそれぞれ近寄りがたい威光と徳が現れて、声々に行者を褒め称えておられます。


 眼に満ちているのは、苦しみを救い安楽を与えようとする色です。喜びのため落ちる涙はとどまりません。聞こえるのはすばらしい教えです。この喜びはとても言葉では言い表せません。


 極楽浄土には紫雲がたなびいているといいますが、阿弥陀様の乗っておられる紫雲がたなびいて、たくさんの修行者と共に前後左右に柴の扉のところに下りられます。


 草庵の上にはたくさんの仏が守護され、苔の庭には浄土へ導く菩薩たちが、光を並べて両膝を地につけて合掌しておられます。伎楽の菩薩もこの時にわき溢れる喜びをどうすることもできません。空にも地にも管弦の音色がしています。


 その時に、慈悲(苦しみを除き安楽を与える)をもって衆生を済度される観音菩薩が緩やかに近づかれ、紫色を帯びた黄金の身を曲げて、蓮の台をかたぶけよせられます。


 次に、智慧(さとり)をもって衆生を済度される勢至菩薩は、浄土へ導く菩薩たちが仏の徳をたたえるなかを、最も優れた智慧の手をのべて行者の頭をなでられます。そして、阿弥陀様の光の中に包み込まれて金の蓮の台に乗せられますが、この時からいろいろ迷っていた世界から抜け出たのです。行者は金の蓮の台に乗り、仏の後ろに従って瞬時にこの世を去り極楽浄土に往って生まれ変わられるのです。


 昔は、仏の恵みをわずかに伝え聞きをした程度でしたが、今は阿弥陀様が浄土へ導かれることを誰でも知るようになりました。阿弥陀様の浄土がどんなところかと詳しく言うと、心地よく迷いの世界に戻ることがない所で、寿命も無量に長いので楽しみが尽きることはありません。阿弥陀様は特に優れておられ、完全無欠な容姿が備わり、福徳や智慧によって身を飾っておられます。又、自由自在の能力があるので心のままに行動することができます。阿弥陀様は、雲の上のてっぺんから下は限りない底までも、苦しみの海にもがいている人たち全部に、仏の恵みを誰にでも平等に施しておられます。


 阿弥陀様や観音様。どうぞ、行者の誓いをあわれみに思い、大悲願をあやまたずに迎えに来られ浄土へ導いてください。皆さん。このよい報いをうけるように、よい行いを誰にも施して、同じ心を持って安楽国に往生しようではありませんか。


参考:
八功徳池:八種の優れた特質を備えた水のある池。八種とは、甘く・冷たく・やわらかく・軽く・澄みきり・臭みが無く・飲むとき喉を損なわず・飲み終わって腹を痛めない水をさし、極楽浄土の水。


七重宝樹:極楽浄土にある七宝からなる樹。七宝とは、黄金・紫金・白銀・メノウ・さんご・白玉・真珠を言い、これらの七宝が根・茎・枝・条・葉・華・実の七つを構成し、七重の並木となって極楽を荘厳にしている。


三十二相:仏に備わる32の優れた特徴。完全無欠容姿。


六通:人知を超えた六種の自由自在の能力。神足通・天眼通・天耳通・他心痛・宿命通・漏尽通


三明:仏が持つ三つの超能力。過去を見通すこと・未来の衆生の死と生の相を見通すこと・仏教の真実によって煩悩を断滅すること。

天台宗とは?



天台宗は近代日本仏教の母と呼ばれ、日本の歴史・文化・芸術・宗教にとって大切な宗派です。天台宗は日本国内ではそれほど広く布教されてはいませんが、天台宗の影響を受けた宗派は世界中のどこにでも見出すことが出来ます。


天台宗は、総合的な教えを持つ宗派で、さまざまな人間の望みにこたえることが出来ます。それは、様々なカットにより、すばらしい光を放つ貴重なダイヤモンドのようです。


最澄は767年滋賀県に生まれ、8世紀に中国天台を学ぶために中国に渡り、様々な師と出会い、天台山で修行しました。


805年、最澄は帰国して4ヵ月後、806年1月26日、天台宗を開きました。以来、比叡山は天台宗の本山として栄えています。1572年織田信長が焼き討ちをし、多くの寺院や人々が焼かれ、殺された後も比叡山は日本仏教の中心として発展しています。最澄は822年6月4日、57歳で世を去り、その後、天皇が“伝教”の称号を彼に授けたのです。


臨済宗、曹洞宗、浄土、浄土しん習、日蓮宗など、様々な宗派の開祖は比叡山で修行をしました。この近代日本仏教の宗祖となった人々は天台宗からの分派といえます。私の意見ではこれらの宗派は、ダルマーダイヤモンドのひとつの側面にしか過ぎません。しかし天台宗は、すべての側面を備えたChih-Iの書き残した教えが教学の中心ですが、今日われわれが学ぶ天台教学はより広い視野の哲学を持っています。いまは法華経は天台宗の一つの教えであり、座禅や密教も共に教えに含まれます。天台宗は中道の教えを掲げ、ダルマ(法)と禅定(行)の双方から成り立ちます。教学の中心は法華三部経で、Chih-Iの摩訶止観が行の中心です。


天台宗が特に強調するのは、密教(曼荼羅観想)・顕教(止観)のバランスです。即ち、天台宗は仏教の中道を目指す宗派だと思います。比叡山の回峰行者は人間と自然の調和のシンボルです。調和の原則が天台宗を魅力的にしていますが、これは我々が生活の中で平和と調和を求めているからだと思います。


天台宗の基盤は伝教大師のすばらしい理想を元にしています。大師の理想に従った僧侶・に荘・在家信者がみな、菩薩道を生きるよう、促されているのです。之を実行することですべての命あるものの調和と、この世に浄土を創ることが出来るでしょう。又、伝教大師は受戒と修行の方法を改革した偉大な僧侶でもあるのです。

天台宗に興味を持った理由



天台宗はユニークで重要な仏教宗派だと思います。理由は密教と顕教のバランスと、教学と行を実際に教える唯一の宗派だからです。他の宗は、たとえば真言宗やチベット仏教は密教を主にし、密教と顕教に関しては天台宗は中道を行き、二つの教えのバランスを目指しています。天台宗を勉強していると理論とダルマの哲学、そしてそれらを実行することを学ばされます。


智慧と慈悲を達成するために理論と行は一つにならなければなりません。他の仏教宗派では、私の知る限り、このアプローチを取り入れて“生きる”ことを教えてはいないと思います。禅宗は座禅に集中し、“頭の知識”を嫌います。浄土真宗は阿弥陀仏の誓願にひたすら集中します。座禅を全く取り入れないのは消極的なアプローチではないかと思うのです。私が天台宗に魅力を感じるのはブッダ・ダルマの勉強と座禅の行を共に行うからです。比叡山の写真を見て、その寺院や回峰行者の姿に初めて接したとき、本当に感激しました。その美しさ、安らぎと自然の調和がなんともいえません。このような風景を私は今までに一度も見たことがありません。私は木や山、森を愛する人間です。比叡山に住んでいる天台宗の修行僧は自然の一部であり、比叡山の景色全体が極楽浄土のように思われます。


私が天台宗の勉強をしたいのは、人間と自然の調和と安らぎがとても重要だと感じるからです。私が仏教書を読み始めてからの夢は、山の森の中の小さなお寺で座禅を組むことでした。私が比叡山の写真を見たとき、平和な雰囲気が手に取るようにはっきりと感じられました。


この天台宗の平和と調和の精神をヨーロッパに持ってくることが出来れば、なんとすばらしい恵みとなるでしょう。書く仏教宗派のバックグラウンドは異なるものの、ナガルジュナ・マディヤミカの哲学が中国天台の基礎となっています。私が知る限り、チベット仏教のいくつかの宗派はヨーガチャラ哲学を中心にしています。私はシューニャターに立つ中道の教えの基礎(マディヤミカ)が好きです。これらの教義については私はほんの基礎的知識しかありません。指導を受けない限りこれらの論理を理解するのは困難です。しかし、近い将来マディヤミカについて詳しく学べるのは大変幸せなことです


すべての仏教宗派には共通点があります。それは、すべてシャカムニ・ブッダが生きた2500年前に始まっていることです。その目標は生きとし生けるもののために悟りを得ることです。その方法論は宗派によって異なります。大切なことは、人もそれぞれ異なった道を経て悟りを開くのだということです。すべてがそれぞれの能力や必要性に応じて宗派を選ぶことが出来ます。ある宗派が他より優れているということは言えないと思います。私たちはそれぞれの道を選び、能力に応じて歩みを進めるのです。


私が天台宗で学びたいのは、総合的な教えと天台宗が教えるバランスが好きだからです。


ヨーロッパでは天台宗の末裔はすでに多く存在しています。伝教大師の深くそして独創的な教えをヨーロッパに広められたら、なんとすばらしいことでしょうか。いまの世の中で調和と平和を求めることは大切なテーマです。伝教大師の教えが異なる文化・人間・自然の間に調和と平和を創る一助となるに違いないと思っています。

天台宗海外伝道事業団々報より。(平成14年10月号)

仏像のみたま

今月は仏像のみたま、即ち魂についてお話します。


 新しく仏壇を求められますと、必ず御開眼の法要をいたします。その仏様に御霊(みたま)が入ったかどうか疑問に思う方もあるでしょう。その疑問に答えるべき次のお話をご紹介申し上げます。


 それは、国宝修理所に昭和16年に入られ、今日まで約1300体の仏像を修理された西村公朝師の体験談であります。


 西村先生は、先般NHK教育テレビで約3ヶ月に渡り、仏像について講義をされた方ですので、ご存知の方も多かろうと思います。その西村先生のお話の中での事です。


 京都の東寺の食堂に、約6メートルの十一面千手観音堂がありました。その像が昭和5年12月21日に御堂もろとも焼けてしまいました。それから35年後、その消し炭のような仏像を西村先生が修理をすることになりました。


 消し炭の部分は、部分的に削り取って、そこに漆を塗るなどし、また背面などすっかり無くなっているところは、新しい木で補い、少しづつ復元し最終段階で仏像の眉間にある白毫の部分にかかられました。そこには白毫として水晶をはめ込むようになった穴があり、当然のことながらそこも消し炭で一杯になっておりました。


 どんどんその穴を掃除する内に、紙の包みが焼けもしないで出てきたそうです。その包みの中には、丁度人間の奥歯に被せる金歯くらいの金の容器が入っておりました。おそるおそる開けてみると、その中には米粒大の仏舎利が一個入っていたそうです。


 どう考えても、その消し炭になった状態から察すると、当然包んであった紙は燃え、そして金の容器は変形してしまっているはずですが、本当に不思議としか言いようのない出来事であったそうです。

手のこころ



人の手ほど素晴らしく面白いものはないのです。手には表情があり、人生があり、文化があり、心があります。


人の手は人類が直立して歩くおかげで、開放され、手を自由に使えるようになったのです。人類の先祖といわれる、アウストラロピテクスが地球上に現れたのは、約二百万年前、あるいは四百万年前といわれます。人類が直立して、手と指を使って今日の文化を築き上げるまでには、長い年月を経て来ています。


「手の舞足の踏む所を知らず」


の諺のように、人間の体の中で手ほど意思や行動を率直に表現するものはないのです。人間は手を使うことによって文明を築き上げ、手でこころを伝え、また、呪術や宗教的習俗として文化をもつくり出しています。


手は単なる肉体の道具としてではなく、霊的なはたらきと結びつけていたのです。
先ず、右手は左手よりも重要とされるのが一般的で、左手はいやしく不浄とし、右手を神聖視しています。お寺やお宮には、お詣りをする前に、手を洗う場があります。神事や仏事に先立ち、先ず手を洗い清めて、神様や仏様の前に向かいます。これは、汚れた手からの危険を避けたり、尊敬のしるしとしての人間の手を大切にするあかしです。


神前で手のひらを合わせる、かしわ手は神霊を招く意味で打つのです。
インドでは右手を「浄」の手とし、左手は「不浄」のことに使う手と分けています。それで、身体も右側を「浄」とし、左側は「不浄」をあらわします。そんなことから、仏様をお詣りする時は、必ず「右回り」にします。それは、自分の浄い(きよい)部分を仏様に示して、敬いの気持ちを表すのです。


手は「浄穢不二」(じょうえふに)です。日常生活においても、きれいなものとしては顔を洗い、食べ物も扱います。きたないものでは、お尻も拭くのです。いいことも悪いことも、同じ手を使ってやっているのです。


仏様のこころは「浄穢不二」です。きれいもきたないもないのです。私たち人間の手は仏様と同じことをしているのです。


仏教では右手を慈悲、左手を智慧(ちえ)とし、これが一体となるのが信心の手で、取りも直さず合掌の姿なのです。


合掌ということは、うやまい、親しみの心をもつ敬愛・感謝・信頼など、いろいろな心のあらわれであります。手のあらわす心の美しさこそが、まさに両手を合わせた姿、合掌でありましょう。

ご用始め

「門松は冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」という一休さんのことばではありませんが、必ずしもおめでたくないかもしれません。


先日ご用納めで過ぎ去った一年の整理をし、来る年の準備をしたわけですが、また正月からはこの新しいスタートです。


ご用始めという言い方は、普通官庁で仕事を始めることをいっているようです。しかし官庁に限ったことではなく、さまざまな職業の仕事を始めることをいいます。古くは家の中のことでは藁打ち、縄ない、縫い初め、書き初めなど、また農業では田打ち初め、一鍬、山仕事では、初山入り、木こり初め、漁村では舟祝い、乗り初め、釣り初め、庄屋では帳祝い、倉開き、初荷などがあります。


一年の計は元旦にあり。最初良ければ万事よし。初心忘れるべからずなど「初め」に関する格言、名句は多くあります。年改り心新たにこれからの前進発展を願い、それに精進を誓う機会が年頭です。個人としては元旦、仕事の上ではご用始めの日がこれにあたるでしょう。


よく3日坊主といいますが、せっかくの決意もそれでは何にもなりません。しかし、さらにいけないことは、何がしかをするという気持ちを持たないこと。最初から、なるようになれ・・・では何事もなし得ません。進歩も何もありようはずはないでしょう。できるだけ大きな目標を持ちたいものです。


「華厳経」というお経には「はじめて悟りの心を発する時、すでに正しい悟りが得られている」と説かれています。出発点の正しく、堅い意思が極めて大切なこと。もし最初の目的が誤っていたり、いい加減な気持ちであるなら、それは挫折の道を歩むことになるというわけです。


新年の出発の時にあたって、清々しい気持ちで各々の課せられた仕事をなしつつ飛躍を期したいものです。

~テレフォン法話集2巻より転載~

節分



節分とは季節の移り変わる時、特に立春の前日で暦の上では2月3日あるいは、4日にあたりますが、旧暦では正月の初旬です。旧暦の時代でも正月と立春とは必ずしも一致しませんが、節分をもって一つの節目とし、これに宗教的意義を付与していたのです。


中国古来の思想である陰陽道でいうと、冬の陰気が終わって春の陽気が来る立春の前日が節分ですから、この日に旧冬の邪悪を一掃し、新しい年の幸福を迎えたいと念願します。


天台宗では万民の除災招福のため、節分会に三百六十五巻の般若心経を読誦します。


節分の行事として何より一般になじみ深いのは、お祓いや豆まきです。日暮れ前に大豆をいり、戸口に焼きイワシの頭とヒイラギの小枝をさす古い習俗もあり、ニンニクなどの臭気の強いものを用いるところもあります。


夜になってから「鬼は外、福は内」などと唱えながら豆をまきます。慈悲の宗教、仏教からすると「鬼は内、福は外」でありたいと思います。


いずれにしても、悪鬼の侵入を防ぎ、人々の幸福を願うものです。


歴史をたどると、立春を正月行事として重んずるのは中国の伝統で、それが我が国に伝わり、生活に密着した大切な行事となったのです。


鬼も福も、迷える我々凡夫の心の中にあるのです。心の中の鬼を追い払い、仏様の心になろうという気持ちで豆をまくことが大切だと思います。
~テレフォン法話集5巻より転載~

端午の節句

いわゆる「折り目」と称される季節の変わり目の日は、すべて節句(供)といってよいのです。また、節句は、三月三日の草餅、五月五日の粽(ちまき)や柏餅など、変わり物を供え物にこしらえる日と考えている地方も多いようです。


端午というのは、初午の月、日ということで、中国で五月五日に行われた習わしが伝えられ、故事来歴がありますが、病気や災厄を払うために、ちまきを作り、菖蒲の酒を飲んだりしたとのことです。日本では五月は田植え月で正月、九月とならんで一年中でも特に重要な月とされ、物忌みを必要とし、そのしるしとして軒先に菖蒲をさしました。


古くは、災厄をさけるため武芸をかねて鹿を追い、薬用として食べるならわしがありましたが、殺生をきらって薬草を採集するようになり、薬玉をおくったりしました。


また菖蒲鬘(しょうぶかずら)をかぶる風習があり、それが菖蒲胄(しょうぶかぶと)に変わり、その前立に人形を飾り、さらに武者人形となりました。


端午を男子の節句とすることになったのは、騎射(うまゆみ)の行事、そして流鏑馬(やぶさめ)、さらにたこ上げ、競漕(ふなこぎ)など勇壮な行事が行われていったからでしょう。


このように、古い歴史のある端午の節句を、次代を担う子供たちのために、私たちは今、何をなすべきか真剣に考える節づけとしたいものです。

~テレフォン法話集2巻より転載~

働く

はたら•く【働く】
〘動カ五(四)〙

1仕事をする。労働する。特に、職業として、あるいは生計を維持するために、一定の職に就く。「朝から晩までよく―•く」「工場で―•く」「―•きながら資格を取る」
2機能する。また、作用して結果が現れる。「薬が―•いて熱が下がる」「引力が―•く」「機械がうまく―•かない」
3精神などが活動する。「知恵が―•く」「勘が―•く」
4悪事をする。「盗みを―•く」「不正を―•く」
5文法で、用言や助動詞の語尾が変化する。活用する。「五段に―•く動詞」
6動く。体を動かす。
「死にて六日といふ日の未(ひつじ)の時ばかりに、にはかにこの棺―•く」〈宇治拾遺•三〉
7出撃して戦う。
「オノレワ戦場ニ出テ楯矛(たてほこ)ヲ取ッテワ―•カネドモ」〈天草本伊曾保•陣頭の貝吹き〉
補 説 「働」は国字。
可 能 はたらける
類 語 (1)稼(かせ)ぐ•勤める•労する•労働する•活動する•作業する•勤労する•従事する•就労する•実働する•勤務する•執務する•服務する•勤続する•仕える•立ち働く•勤まる•汗水を流す•額(ひたい)に汗する/(2)作用する•機能する•作動する

~国語辞典より~



とありますがこの「働く」という漢字は日本人が作った漢字ですね。この「はたらく」という言葉は「はたを楽にする」、周囲を楽にすることだと思います。


「働く」は「人」偏に「動く」と書き、人が動くことが働くことであるという、日本人の考えが示されているように思います。


しかし、ただ動くのではありません。人が動くというのは、体が動くと同時に頭が動く、心が動くのです。だから、働くことはまさに生きることなのです。


働くことは欲がなければできません。目標に向かって私たちは働きます。


ただ、目標があっても頭デッカチではうまくいかないでしょう。そこに向かって走る時の心持ち、体の動かし方、考えの総合力こそ、欲望をよく生かしていく方法なのです。