醴泉院

宗家十一代藩主材盛公の菩提寺

礼泉院.psd

御本尊

聖観世音菩薩

宝物

涅槃図(県指定文化財)釈迦十六善神図(県指定文化財)

年中行事

護摩祈祷会二月・両彼岸会三月九月・施餓鬼七月十五日・地蔵盆七月二十四日・盂蘭盆会八月十三日~十五日

縁起

当院開創の年代は、正確には判別しがたいが、開基橋邊次郎左衛門の死没年紀が天文十六年とあるので、それ以前と推測され、四百五十年余年の寺歴を有す。当初、橋邊氏末子、出家開山するも故あって還俗。それより洞派国分寺四世伝室慶珍を以って仮の開山とするまで六十四年間、橋邊氏これを看主し後、慶珍和尚同寺五世となり、次いで心徹素養和尚中興の師となる。当院開創建の地は、府城(現厳原西里)清水山城の山麓に在りしも、後府城東麓に移る。この地、山秀に水潤麓にして湫名あり。名づけて金石泉と呼び、これを以って醴泉院の号となす。後年十一代藩主、材盛(きもり)公墓所地の現当院寺域に還る。寛永年宗氏安堵の時、宗旨を天台に改められ、藩主の要請により当院も天台に改宗す。時に久留米高良山より圓純法師、萬松院に來住し在職浅くして当院に隠居す。これにより法師圓純を以って本院開山第一世となし、現在三十四代となる。以後、正保年の朝鮮通信使宿泊所。文化七年には本島渡来最終の通信使、上級約官役泊所となる。明治三十八年、堂宇の改修なるも蟻害甚だしく、遂に昭和五十六年より新築工事に着手し、二ヵ年に亘る改修を成就し、併せて観音堂の改修も完了す。尚、当院には、往時、平安朝時代の文章博士、参善清行の族、布施氏の後裔と称する檀徒あることを付記し、沿革大略す。

交通アクセス

厳原港より徒歩二十分車五分空港よりバス二十五分(バスセンターより徒歩十分)車十五分

住職の閑話

『葷(くん)酒山門に入るを許さず』

先代醴泉院第三十四世安藤良俊大和尚は、平成十七年六月三十日、世寿八十歳をもって、ご遷化あそばされた。師は大変博学な方で、何にでも精通され、市の文化財保護委員などの公職を歴任された。私も公私にわたり大変御世話になったが、特に古文書の解説、表白などの校正について、丁寧なご指導をたまわった。また、大変な酒豪で、酒にまつわる数々のおもしろい逸話もあるが、紹介するには紙面が足りない。そんな師も、晩年ご病気のせいか、めっきり、お酒がお弱くなり、あるとき、『葷酒山門に入るを許さず』というではないか、『よって、葷(くさきもの、にら、にんにくの類)はともかく、本日より山内では禁酒とする。』と宣言された。我々が言葉を尽くして諫言申し上げたことは言うまでもない。謹んで師のご冥福をお祈りいたします。(文責主事)