来雲寺

唐津初代藩主嫡男寺澤式部太夫忠清の菩提寺

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御本尊

聖観世音菩薩・創建時朝鮮渡来の厨子入り仏像・厨子高さ三十七センチメートル・仏像身の丈十八センチメートル

寺宝

創建後寺澤侯より寺領五十石被宛行書状如左(以下書状は唐津城展示館に展示)
宇木村之内五十意思、全可有寺領也仍如件。寛永十二年乙亥正月二日兵庫頭忠高書判来雲寺
當寺領之事、先年継目之時、志摩守書出、兵庫頭被留置、則兵庫頭に取替進申候處、相違無御座候者也。正保五年戊子正月十五日(同家老中副状あり如左)熊澤三郎右衛門並河太左衛門澤木七郎兵衛今井縫殿之介来雲寺

年中行事

初不動護摩祈祷春・秋彼岸会式部太夫忠清施餓鬼会・盂蘭盆会・歳末法会

縁起

松浦昔鑑によれば、来雲寺の事につき、左記の通り。宇木村に在り、則志摩守様御嫡男式部大輔殿御菩提寺、御舎弟兵庫頭様御建立有り、代々地頭より米六石宛宇木村御上米之内にて被下置候也。また、唐津拾風土記、寺院名寄曹洞宗四十七ケ寺の項に「豊後杵築泉福寺末寺」此末寺宇木村御合力米現米六石、「来雲寺」の記載あり。明治維新後一時廃寺となったが明治中期、亮永和尚により天台宗平仙寺出張所として再興なった。現存の本堂は、明治二十九年に再建された。昭和十七年には、佐賀県知事の認可を得て「天台宗来雲寺」とし現在に至る。

交通アクセス

JR筑肥線東唐津駅下車、南東六KMタクシー一〇分西九州道路(唐津道)中原ICより四km五分昭和バス宇木・半田線、宇木JA前下車徒歩五分

住職の閑話

寺澤忠清の悲話

唐津初代藩主寺沢志摩守廣高の嫡男忠清は、慶長十六年徳川二代将軍秀忠に面謁し、従五位下式部少輔任官の沙汰をうけた。時に忠清十二歳であった。しかし、体質虚弱であった忠清は、加えて父廣高の勘気にふれ追放されてしまった。寺沢家の家老たちは主君に内密裏、遠国へ流される忠清を宇木村に隠したのであった。宇木を浮島とかけて、遠島へ流したという形をつくり、いつかは志摩守も親子の情がもどり忠清を許す日もあろうという、重臣たちの計らいであった。忠清は、重臣たちの心に報いるため、宇木村では謹慎よくつとめ、もっぱら学問に身を入れ志摩の守の赦免の命を待ったのであった。しかし、父の赦免の命を待った甲斐なく十年謹慎生活の後、親に先立ち、元和八年四月一日他界した。歳二十三歳。死後、その配所跡に、唐津二代藩主堅高により菩提寺「来雲寺」が建立された。
法名 来雲堅従大居士