地蔵院

三十六坊一山の名残を伝える仁比山観音

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御本尊

十一面千手観世音菩薩(五尺七寸)は行基の作と伝えられ、護国寺の御本尊としてお祈りしている。

ご詠歌

いやしきも高きもいざやえらびなくただまことある道まもるなり

寺宝

大般若経・地蔵菩薩・不動明王

年中行事

申年四月十二年に一度の大開帳・毎年十一月九年庵特別御開帳・二月四日星祭り節分会・五月吉日水子地蔵大祭・八月十日施餓鬼会・毎月十七日観音護摩供法要・毎朝六時朝まいり会

縁起

天平元年、聖武天皇の勅願により行基が草創した護国寺三十六坊。成善坊、不動院、地蔵院の水上坊、吉祥院、法音院の成道坊や宝林坊、円頓坊などがその名を残している。護国寺は、明治以前まで仁比山神社の神宮寺であった。一山の塔頭不動院は、日吉神社ともよばれたこの神社の別当職を兼ねていた。承和十四年、円仁(慈覚大師)が唐より太宰府への帰路、この地に立ち寄り一千座の護摩を修めた。この護摩のために悶伽井を掘った時に出てきた「日吉宮」と記された額を仁明天皇に奏上したところ、仁明の「仁」、比叡山の「比」を合わせ、「仁比山」の勅号を賜ったという。以来、坂本日吉神社の分霊を祀り、祈願所として尊祟が厚かったと伝えられる。戦国時代に大半が焼失したが、江戸時代、藩主鍋島直茂・勝茂公の援助により復興され、当時の古文書に「不動寺領九十六石〇末寺四ヶ寺」「此山王ノ社僧不動院ノ外二社ノ東ノ傍二天台宗吉祥ト伝寺アリ」とある。維新後、護国寺が神仏分離で廃寺になる際、地蔵院は吉祥院跡に移り、三十六坊の御本尊千手観音菩薩や、塔頭不動院の不動明王などをお祀りする。現在、西国観音霊場二十番札所として、一千二百余年の法灯を伝える。大門の金剛力士像に、かつての盛んであった山容が偲ばれる。

交通アクセス

(電車)JR長崎本線神埼駅下車※神埼駅より北へ五km(タクシー・バス)(昭和バス)三瀬・背振行、仁比山神社前下車(車)九州自動車道、東背振ICを下りる。佐賀方面へ二km、飯町信号を右折二km

住職の閑話

私がこの地蔵院に嫁いでもう三十有余年になる。娘たちが小学一年と二年になった春、夫が亡くなり寺をでようかどうしようかと途方に暮れていた。そんな時、一人のお遍路様がいらして、「このお観音様は子供たちにひもじい思いを決してさせない仏様です」とおっしゃった。お遍路様に言われたとおり毎日掃除をし、一生懸命お勤めをしていると、たくさんお参りがあり、その方々のお礼参りも増えた。私自身も、子供たちも、観音様に救われたのである。右も左も分からず仏門に入った私だったが、お参りに来られた方々の願いが仏様に届き、少しでも多くの悩みや苦しみがなくなるように心を込めて念じてきた。千手観音菩薩はあの手この手を使い、我々の苦しみを除いてくださる仏様である。護国寺はその名の通り、鎮護国家のために創建されたものではあるが、この地蔵院はご詠歌にあるように、衆生すべてを護る寺である。我々は、仏様・ご先祖様に感謝して毎日を過ごすということが大切なのである。