佐賀県神埼郡三田川町目達原
沿革史
| 本尊:大聖不動明王(玄純僧正作伝) 住職:藤 光賢 寺宝:法華経壱萬部読誦法塔、法華経壱千部読誦法塔 沿革:開基 玄純僧正 藤原朝臣大宰小貳家の宗臣、執行越前守の末裔として、神崎郡城原之庄に生を享けた滋眼大師の高弟である背振山塔頭東福院僧正玄純大和尚が、天女(弁財天)の夢告に依り、無疑思広々たる野原であった当地を墾き、般若心経一巻誦する毎に、松杉を植えて霊林ならしむる中に、一刀三礼を以って刻せる不動明王像を御本尊として創建開山されたのである。開創当時は、松林寺と号し、後第四世普貫権僧正江戸護摩堂七年己勤の功にて、東比叡法親王より金乗院の号を賜り、以後、金乗院松林教寺と号す。 開山玄純僧正は、当国天台法門二門の内、東目門中法門の祖であり、国守大公の敬信帰依篤く、戦国の世に武運長久、藩内安穏、五穀豊穣、萬民豊楽祈願道場法主として祈請す。又藩主の請願に依り、天下泰平、国家安全子孫連続の祈祷の為、此の浄域に、一乗法華妙典壱萬部読誦の大廣会を祈願す。以後、恒例となった藩主直願の萬部祈祷会である。藩主大公は、玄純僧正を大いに崇敬し、北は野口、東は三根郡、西は横田、南は中杖に至る一円の地を当山の寺領として献納さる。 茲来、明治維新まで藩主直願の道場として隆盛を極め、太守をはじめその御親戚、宗臣などに依る祈念の薫香絶ゆる事なき梵場であり、山内には、金剛力士の仁王門をはじめ、弁天社、山王祇園社、愛宕、稲荷等の社殿に、天王坊、成就坊、南覚坊、龍眼坊、玉典坊など十有余の鎮守社、末寺を擁する法城であった。幕末兵火と維新法難に依り往時の法域も上地の止む無きにあい、荒廃の難を免れ得ずしところに更に農地開放にて疲弊の一途を辿る。 現在第二十五世光賢、昭和三十一年晋山の後、寺門を広く衆庶に開き、渇したる人心に佛徳の大慈悲に依る和平の泉たらんと、開山玄純大和尚の法華円頓の妙旨の法燈を掲げて霊場を再び興し、現在に至っている。 近年の歩みとしては、昭和四十年納骨堂建立、四十二年本堂、庫裡営繕、四十三年北領大行満叡南祖賢擬講大僧正の錫を仰ぎ、北領修行採燈護摩供秘法伝授戴く。翌四十四年松之森枳茶尼天堂再建、五十一年には、末寺成就坊を再建復興し、本尊十一面観世音菩薩の遷座を願い、秋十月八日探題大僧正中山玄雄猊下の御親修のもと、四箇法要の厳儀を修して落慶の法莚を展ぶ。更に五十六年に、百躰観音祭祀の開眼法要に、青蓮院跡東伏見慈q蜻m正を特請して、百五十余名の戒弟が天台密教の血脈に連なる。時恰も宗祖伝教大師御得度壱千二百年の佳辰を宗団挙げて慶讃し、祖訓「一隅を照らす」大師の御精進が全国に布莚されている時であった。 末寺及び付属堂寺:成就坊、天堂、地蔵堂、納骨堂、檀信徒会館、 古文書等:寶雨山記 行事:元旦修正会、節分会、本尊大祭会、天堂宵祭り、大般若会、施餓鬼会、採燈護摩供会、天台会 |