金乗院

九州三十六不動尊第三十一番霊場

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御本尊

大聖不動明王

ご詠歌

脊振なる峰より寳の雨ふりて不滅の灯明萬部法華経

年中行事

修正会・節分会大般若経祈祷・大祭護摩供祈祷・施餓鬼会先祖供養・採燈大護摩供・天台会・百万辺念珠先祖供養(毎月十八日)・護摩供祈祷(毎月二十八日)

縁起・沿革

藤原朝臣太宰小貮家宗臣執行越前守の甥御として、神埼郡城原之庄に生を享けた慈眼大師の高弟背振山塔頭東福院僧正玄純大和尚が、天女の霊夢を蒙り、無礙思曠曠たる原野であった当地方を墾き、般若心経一巻誦する毎に、松杉を植えて叢林ならしめ、この浄地に草堂を結び、一刀参礼を以って刻せる不動明王尊像を御本尊として奉安して護国三部経読誦祈願寺を創建開山されたのである。開山当時は、松林寺と号したが第四世普貫権僧正江戸城護摩堂に七年巳勤の功により、東叡山法親王より金乗院の号を賜り、以後、金乗院松林教寺と号して今日に至る。開山玄純大和尚は、当国天台法門二門の内、東目法門の祖であり、国主大公の敬信帰依篤く、天下泰平、萬人豊楽、五穀豊穰を念じ斎世利民の祈願道場法主として日々祈請す。寛永九年藩主の請願により、武運長久、藩内安穏、領民安寧、子孫繁栄祈祷の為、「一乗妙典法華経壱萬部読誦大廣会」を百僧百日を以って執行祈願す。爾後、藩主直願の法華経萬部祈祷法令年次例祭として執行されるようになった。藩祖直茂公、藩主勝茂公は玄純僧正を尊崇され、北は野口、東は三根郡、南は中杖、西は横田に至る一円の地を寺領として献納され、明治維新までは藩主直願の祈願寺として、太守をはじめ御親族、藩臣等の賽客による祈念の香華絶ゆる事なき梵場を成す。寺領内には釈迦堂、毘沙門堂、金剛力士の仁王門をはじめ、弁天社、祇園社、山王社、愛宕、稲荷等の社殿に、天王坊、成就坊、南覚坊、龍眼坊、玉典坊など十有余の護法堂、鎮守社、末寺を擁する法城であった。大書院(御成りの間)は藩主参詣や参勤交代時の御座所として宿泊休憩に供されていた。幕末兵火と維新法難により往時の法城も上地の止む無きにあり、荒廃の難免れ得ずしところに更なる農地解放政策にて疲弊の一途を辿るも「佛種不断」の冥護を蒙り、法燈不退にして今日まで継承さる。当山十三世権僧正玄真師は第二百四十一世天台座主三津玄深大僧王の師主であり、十四世神原玄啓、十五世福地貫仁両師は玄深座主の法弟である。神原玄啓師は三千院門跡神原玄祐師の養父なり。戦後混迷期の昭和二十三年二十一世に転住晋山された藤盛澄師は昭和二十六年四月、法華・常行の大法会を執行して報酬慈恩の誠を捧げ併せて有縁檀信徒先祖回向法筵を展ぶ。近年の歩みとしては、昭和三十九年納骨堂建立、四十三年北嶺大行満叡南祖賢大僧正の錫を仰ぎ採燈大護摩供秘法伝授戴き採燈大護摩供道場開闢、四十四年松之森尊天堂再建、五十一年末寺成就坊再建復興し中山玄雄探題大僧正ご親修のもと「四箇の大法」を厳修して落慶の法悦充る。更に加えて五十六年には、百躰の観音菩薩を祭祀し青蓮院門跡東伏見門主を特請して、九州では初めての「結縁灌頂会」を執行して百五十余名の戒弟が天台密教の血脈に繋がる。平成二年三月には本坊、同九年四月には新本堂の建立円成、合わせて寺務棟が併設されて寺観一新さる。その間現住光賢は、比叡山回峰行門に146松之森尊天地蔵堂本堂列し北嶺大々先達總一和尚の位に薦む。天台・山家両会の問講及び長講会諸役を勤め平成十五年八月戸津説法を勤仕畢って望擬講の法階に上る。傍ら教区主事・宗会議員・宗議会議長を歴任、平成九年より十三年まで宗務総長に就任し一宗を統轄す。退任後は天台座主猊下の諮問に応ずる宗機顧問の役に在る。更に、平成一九年十二月より京都洛北曼殊院門跡門主に就任現在に至る。

交通アクセス

長崎自動車道東背振インターより鳥栖方面へ五分国道三十四号線上峰町切通より北へ二分電車―JR長崎本線吉野ヶ里より車で十分

住職の閑話

如 是 空

見よ かざられし 王車にもたぐうべき この世を見よ おろかびとは この世間に溺るれど 心あるものには いかなる執着もあることなし
格差社会が広がっていると言われていますが、現代日本人の多くは、昔の王候貴族すら及ばない生活を送っています。それなのに、人々はどこまでいっても満たされない欲望に目を血走らせて、世間全体にイライラ感が蔓延しています。飾り立てられた王様の車に、我先に乗り込もうとし、それが幸であると信じて疑わない「愚か人たち」。お釈迦様は「そんな空虚なものに、心を奪われてはならない」と諭されているのです。しかし、実際に目の前に欲望が差し出されたらそれを振り払うには極めて強い意志が必要です。お釈迦様は「いかなることにも執着あることなし」と示されております。私は「有れば有るように、無ければ無いように」と解釈しています。それは、自分の心を世間から一歩おいておくことです。