感応院

不動尊と三密一体となり即身成佛された豪閑和上

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御本尊

十一面観世音菩薩

寺宝

釈迦涅槃の図(一幅)(享保年間)・青不動明王立像(鳥羽院御筆に依ると古文書に有、豪閑法印遺品)釈迦誕生佛(銅製五寸丈)・八大龍神像(立花英山公寄贈)・胎蔵界金剛界曼茶羅図(二幅)

年中行事

観音講・不動明王護摩

縁起

当寺は、宮永高良大菩薩御遷座の節寄附されたもので、古文書により、開山は、嘉禄元年(一二二五)頃である。玉淋寺と号し、大友能直の霊を安置していた。旧藩時代より寺領五十石を附せられ、元禄六年(一六九三)立花藩主より本堂五十八坪、元禄九年(一六九五)一反五畝二歩寄進、元禄十年(一六九六)八幡宮御供田高十石を社領として加せられている。中興の僧豪運は、天和元年(一六八一)入山し、師に当たる最勝院の西行院豪閑の隠居寺を寺内に造立。これを感応院と呼び、勝宝寺は、元禄再興された。時の城主英山公(立花鑑虎)は霊験あらたかなる当の諸神仏に武運長久と万民の豊楽を篤く御心願になり、公の篤望に依り、祈願霊場として、元禄十一年(一六九八)東叡山の末寺に属したものである。又、当寺は、数多い寺院の役人を務め、神社の別当を兼ね、領内各神社の祭祗方を司り、一切をまとめること実に、参百年続いてきたものである。明治初年、廃仏毀釈の法難をのがれられた神仏と共に、「天台密教」を根元とする祈祷寺として、今日に至っている。

交通アクセス

電車・西鉄柳川駅下車バス・西鉄柳川駅より堀川バス上宮永下車徒歩一〇分車の場合・九州自動車道八女ICを下りて柳川方面へ約二五km

住職の閑話

山門をくぐると、青々とした木々に囲まれた感応院本堂が目に入る。寺の奥には、大阿闍梨豪閑和上様の「不動尊」が祭られている。豪閑和上様は、今から三百年前、感応院を隠居寺と定められ、信仰三昧に入られた。死後はもとより、生前において即身成佛を達成するため、法華経一千部読誦写経を大成し、不動尊と身、口、意、三密一体となられた。このことは、一人の高僧が、命をかけて不動尊と一体となり、即身成佛された御利益が、衆生に顕れているものと思われる。廃藩置県の後、明治初年神仏判然とせられ、廃仏毀釈の法難をのがれて来られた神仏と共に、天台密教を根元とする祈祷寺として、今日に至っている。三百年の時空を越え、豪閑和上様と対座を許されるならば、今の時代に生きるわたしたちに、何と言葉をかけて下さることだろう。