常楽寺

月輪大師修学の寺

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御本尊

十一面千手観世音菩薩肥後国史によると「本尊千手観音は隋の世の作と云う」と伝えている。

ご詠歌

よしあしの報いなしとは飯田山かたちゆがみて直き影なし

年中行事

毎月十八日縁日会

縁起

当山は六世紀末、敏達天皇御世、日羅開基とも云われ(肥後国誌)学術的には一一四〇年代比叡山第四十七代座主忠尋の高弟真俊による開山説が有力視されている。以後四宗兼学の道場として繁栄中でも月輪大師俊は真俊の弟子であり、十四歳から二十六歳迄当山にて修行、後に天皇家菩提寺京都泉涌寺開山の名僧である。当山の近くには出城(田口城)があり戦国時代は如何なものであったか?その後文献に飯田山常楽寺が姿を現すのは時代がずっと下って寛永四年である。円斉豪澄という人が「鎮西肥後州益城郡飯田山常楽寺観音堂再興幹緑文」と云う観音堂の再興勧進帳を出している。以後二十五年の経過を要して堂塔が完成整備されている。又同じく細川綱利公の祈祷所となり、細川家の庇護の元に盛行している。明治の廃佛毀釈に依り領地没収、又戦後農地開放に依って離散す。昭和五十八年三堂屋根改修、平成二年信徒会館建設、同八年梵鐘鋳造、同九年鐘楼堂建立の慶をなし復興を成就する。

交通アクセス

産交バス、熊本発木山経由御船線の「下砥川」バス停下車。常楽寺登り口から三粁。自家用車でなら同所より別途車道で山門近く迄登ることもできる。

住職の閑話

肥後民話に飯田山と金峰山がその高さを競った話があります。飯田山は熊本平野を挟んで東に海よりそそり立つ秀麗な金峰山がいつも気掛りでした。「どちらが高いだろうか私の方が高いにきまつている」と或時飯田山は金峰山に丈比べをしようと申込みました。金峰山は乗気ではありません。飯田山はしつこく申しますので根負けして応じる事になりました。当日金峰山の頂から飯田山の頂へ樋を掛け水を流してみました。するとどうでしょう、水はどっと飯田山の方へ流れてくるではありませんか。飯田山の方が低かったのです、飯田山は急に恥ずかしくなり「もう云いださん.....」と云って逃げ帰ったそうです。この話は己れの心に潜む自我の優越性を戒しめる話と受け止めている。すべての人、己れの心の制御ができれば、すばらしい世の中になるものをと、受け止めている。