国分寺・東大寺と戒壇(続き)

 当時の寺院としては、百済大寺(大安寺)や飛鳥大寺(元興寺)等の「大寺」と称する官寺があり、各寺に寺主、法頭、都維那の三綱がおかれ、寺院の運営や僧尼の取り締まりが行われた。興福寺は藤原氏の氏寺として建立されたが、天平時代には大寺として待遇され、法隆寺も大寺の中に加わり、薬師寺、西大寺を併せて南都七大寺と称され、また延暦十七年の太政官符では弘福寺、四天王寺、祟福寺が加わり、十大寺が定められている。このほか奈良朝末から平安初期にかけて頻りに官符が出され、中央及び地方に官寺に準じた定額寺が定められ、供田や稲が施入された。別当や三綱がそれを検校するのであるが、これには天子の御願を奉じ、国家護持をいのるべきことが記されている。

ところが奈良朝末から僧尼令による戒飭の勅が実に屡々出されている。「沙門ほしいままに本寺を去りて山林に隠れ住し、人の嘱託を受けて或いは邪法を行う。欺くの如き徒、同じく許さざる所なり」という如くである。それは上記のように僧尼は官吏に準ずるものだからである。そしてその例証として、諸国に遊化して民庶を教化した行基が、弟子とともに「妄りに罪福を説き百姓を妖惑す」として弾圧されたことが挙げられる。また文武天皇三年(六九九)役行者小角は伊豆島に流されたが、それは小角が葛木山に住し、呪術を以て世間を妖惑したため、と続日本記にしるされている。

役小角は優婆塞であって出家僧ではなかったが、このような祈祷の修行者が多かったようで、また課役を逃れるために髪を剪って出家する私度僧や偽濫僧が少なくなった。

それとは別に、天智天皇のころから頻りに山寺の記録資料が見えてくる。

先ず天智天皇七年、大津宮に近い志賀山中に建てられた祟福寺があり(日本記略延喜二十一年条)、次に和銅八年以前に近江国比叡山に精禅処が建てられ(懐風藻武智麻呂伝)、大和泊瀬(はっせ)の上山寺(続日本記・霊異記)、大和高市郡の壺坂山寺(三代実録)、添上郡の香山寺(続日本記)、高市郡の法器山寺(霊異記)、高市郡の子島山寺(延暦僧録)等々数え切れない。それらは堂塔伽藍の整備した公許の寺とは思われず、私寺に類したものであろうが、この他にも多くの山があった。また孝徳天皇即位前紀に古人大兄皇子が「臣願わくば出家して吉野に入り、仏道を勤修して天皇を祐け奉らん」といって落飾し、天智十年紀に大海人皇が「天皇の奉(おほ)ん為め出家せん」と請うて吉野に入ったという資料があり、当時吉野山は神仙の境として憧憬の地である。仏道修行のため入山する者が多かった。最澄の顕戒論巻中に「比蘇の自然智」というのは、榮叡・普照らが戒師招聘に際し、鑑真より前に来朝してもらった道叡のことであるとされる。「比蘇」とは吉野山の異称であり、道叡が吉野において虚空蔵法を修して自然智を得たことから来た呼称とされている。また同じ最澄の法華秀句巻上末に、法相宗の義渊をして比蘇の自然智宗の人としているように、吉野山で虚空蔵法を修す人が続いた。霊異記巻上には「吉野比蘇寺」の阿弥陀像が光を放ったという話を載せ、鎌倉時代の太子伝古今目録抄には「此の寺を又現光寺と云ふ」と記している。

さて奈良時代末期の大問題は、唐僧鑑真による戒壇院建立のことである。仏教が伝来した初め、朝鮮や中国から僧侶が渡来したが、日本人としては推古時代に始めて善信、禅蔵、惠善の三尼が出家した。しかし三師七証(戒和尚、羯磨師、教授師と七人の証明師)の授戒師による授戒の制度が無かったため、三尼は百済ヘ行って受戒したといわれる。その後も制度が整わないため、占察経などによって自誓受戒(仏前に誓って戒を受くと観念し、その証明として夢に好相を見ると称す)を以て受戒したという、極めて漠然とした伝承が残されている。

この説には少なからず疑問があるが、ともかく栄叡・普照の二人の僧が唐へ渡って伝戒の師を捜しに行き、五度の遭難を経て六度目の天平勝宝六年(七五四)鑑真は来朝した。そして東大寺に戒壇院を造り、ここに初めて具足戒の授戒が行われ、大僧(正式の比丘)が生まれた。

さてその鑑真の戒は四分律に據っている。四分律は小乗の部派の戒律で、姚秦の弘始十二年(四二〇)羅什に」よって漢訳されたが、唐初の道宣(五九六〜六六七)は四分律行事鈔六巻や戒壇図経等を著してこの律を解明し、授戒の儀則を整備した。そのため道宣以後には彼の南山律宗が盛行したが、そこに説かれる比丘戒二五〇戒、比丘尼戒三八四戒の授戒が鑑真授戒の骨子である。

鑑真は戒壇院主の位置を退いた後も、唐招提寺において布薩説戒を行い、戒律の普及に努め、また天台学の造詣があったため、その四分律は単なる小乗律ではなく、部分的には大乗に通ずる「分通大乗」の律であるともいわれる。しかし本来的にはやはり小乗律であるために、比叡山の最澄からは小乗律として棄捨すべきものとされた。

※宗教教育テキスト「佛教のあゆみ」より