中大兄皇子と中臣鎌足による大化の改新は唐の法治体制に倣ったもので、その基本思想は儒教であり、仏教に対しては唐の※道僧格に準じた僧尼令を以て統制する事になった。※僧尼令は養老律令に明文化されているが、すでに天武天皇代の飛鳥浄御原令に基本はあったものと推定される。なお道俗僧格は唐初貞観(637)に制定され、道士・女冠、僧尼の取り締まりを目的とした格(律令を補完する法典)である。 聖武天皇が天平十三年(741)三月に発布した国分寺建立の詔に、みずからの不徳を慚じ、「国泰らかに民楽しむにはいかなる政化を修すべきや。この金光明最勝王経を講宣し読誦して世に流布せしめば、四天王が常に擁護し、一切の災いが除かれると記されている。それ故、天下の諸国に金光明四天王寺護国寺(僧寺)と法華滅罪之寺(尼寺)を建てたい」と述べている。 この詔を出す前、すでに天武天皇の頃から、四方の国に人を派して金光明経や仁王経を説かしめ、仏像や経を礼拝供養せしめた先蹤があり、国分寺はそれを大きく結実させたもので、後には全国の国分寺六十八、国分尼寺三十が造られている。それは国司による諸国統治と民衆教化を併行させたものであり、正に仏教国教化の体制といえるであろう。 東大寺は、初め聖武天皇が奈良東山に金鐘寺を建て華厳経を講ぜしめたが、やがて天平十四年、盧遮那大仏造立を発願して、七ケ年を要して天平勝宝元年(747)に完成した。すなわち全国の国分寺を統轄する総国分寺の理念を持ち、諸国国分寺と同じく金光明四天王護国之寺と称する。しかしいわゆる本末関係はない。一説として盧遮那仏の臺座の蓮瓣は華厳経の結経である。梵網経巻下の左の文に據るものとされる。 一国に一釈迦ありて各々菩提樹に坐し、同時に仏道を成ず。この千と百億の釈迦は盧遮那を本尊とし、各々微塵の衆に接す。 すなわち盧遮那仏は中央の蓮華臺座に坐し、周囲をとりまく千の蓮瓣には、千の釈迦が居られる。その一枚の蓮瓣には百億の国があり、その一国には一釈迦が菩提樹の下に坐して一斉に成道するが、この千と百億の釈迦はすべて盧遮那と本身とし、且つ各々無数の衆生に接している、というのである。つまり中央の盧遮那仏は東大寺に、蓮瓣の釈迦は全国之国分寺に坐して、無数の民衆に接して教化の説法をしているという。※実に壮大な構想であり、国家仏教の具現ということになろう。 ※家永三郎作「上代仏教思想史研究」第二部三「東大寺大仏の仏身をめぐる諸問題」二四九頁、二五九頁。(昭和十七年、畝傍書房刊)なお華厳経では、本仏は毘盧遮那仏であるが梵網経では盧遮那仏である。 しかし一方、僧尼・寺院を管轄する僧尼令は、天武天皇以来の律令を踏襲し、その制約の厳しいことが指摘されている。そしてこの法令を施行するのは千部省玄蕃寮の司直であり、また僧網の僧官が参与している。 僧尼令の要点を概説すれば、そのもととされた唐の道僧格では儒教的法治主義に基づくものとされているが、僧尼令では必ずしも儒教思想ではなく仏教にもとづくものもあり、特に小乗四分律に共通する條項が多い。そして僧尼をして寺院の境域内に限定し、別に道場を建て、衆を聚めて教化し、みだりに罪福を説くことを厳禁し、また山林修業に対して厳しく制約を規定している。そして本来は教団がもつべき得度、授戒の権限までも。治部省玄蕃寮の発行する度縁・戒牒によって証明されるのであって、僧尼はいわゆる官僧であり、もっぱら寺院の内に在って天皇と国家の安寧を祈るため、律令政府によって任命された司祭者の地位に在った。※ ※高取正男「律令国家と仏教」(「日本仏教史」1古代編、第三章「奈良仏教」3,一一七頁〜一二七頁、昭和四二年、法蔵館刊) 僧網は推古三十二年に設置され、大僧正、僧都、律師等の僧官が置かれ、僧尼の出家得度、受戒、僧籍の帰属等に権限をもち、また諸国国分寺への講師・読師の任命や派遣にも関与した。そしてそれらの位官には主に南都七大寺(東大、興福、元興、大安、薬師、西大、法隆など)の高僧が宛てられている。いわば僧尼令とそれを運用する玄蕃寮の俗官との間の緩衝地帯の役割でもあったが、一一の事例における去就には微妙な場合もあったことが推測される。 続きは来月にてww |