寳地院

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御本尊

千手千眼観世音菩薩
寛永四年(一六二七)佐賀城主、鍋島勝茂初代藩主が、観音堂を再興されたとき安置する。

ご詠歌

にごらじな、誓いも深かきのりの水、ながれもつきぬたきの白糸。

年中行事

一月十八日、初観音祭・七月下旬土用丑の日祭・二大行事・毎月十八日午前十時 月例縁日護摩祈願祭

縁起

今から一二〇〇年前(八〇三)最澄上人、中国へ還学生として渡航中玄海の大波により、遣唐船が大破、その後、福岡に滞在中、弟子の聖命が、この地を開山され、師匠最澄上人の中国天台山台門修学円成悲願達成の為に、千手観音を安置されたのが清水山のはじまりである。延暦二十五年、桓武天皇の勅命で、比叡山に、天台法華円宗として独立し、清水の寺も、勅願寺として、鎌倉、江戸と天台宗の寺院として今日まできている。特に、江戸初期、小城の殿様が父上にあたる勝茂初代佐賀藩主を、鹿がりに、招待し、清水の滝壷で、鹿を追いつめ、弓矢をはなったとたん鹿は消え、滝の中に、観音さまが出現し、勝茂城主は、感得し、六間四方入母屋造りの観音堂を建立したのである。(寛永四年八月)(一六二七)佐賀藩馬術指南役倉永一族を、住職として代々護持し、正月、五月、九月、明治維新に至るまで、佐賀藩主が、直接、肥前の国が安泰であるよう祈願されたのである。廃藩以後は、民衆の祈願道場として、安産、病気手癒、厄除を願う信奉者が、参詣、戦後の一時期苦難の道をのりこえ、九州西国霊場第二十一番の札所として全国より巡礼する善男善女の山紫水明の山里として、にぎわいをみせている。南方には、雲仙岳、有明海と末広がりに眺められる景観は、絶景である。當山も、開創一二〇〇年に当たり、総本山比叡山開宗一二〇〇年の嘉辰の歳と共に二十一世紀にむけて発展を望む。

交通アクセス

JR小城駅下車(タクシー利用)自家用車(高速佐賀大和インター下リテ小城方面)(高速多久インター下りて小城方面)

住職の閑話

書聖中林悟竹と大悲閣

三十代隆経は、清水観音本堂、西隅の一部屋で、師走の晦日より一週間、滝の水を取り、精神修養に励げみつつ、書写の研鑚につとめた。(恵身手眼)の偏額を、結願日に、住職へ、奉納し、書への求道心を、実践し、東京・中国へと渡海したのである。まさに宗祖伝教大師の「道心」、一隅を照らす郷土の実践者にほかならない。晩年は、悟竹翁として、三日月町、金田の里に、観音堂を建立余世を過ごされた。大悲閣清水観音堂の裏山に、七十五米の清水の滝は、わき水が集まって流れ落ちる滝水は、精神修養の行場として、善男善女の合掌のすがたがたえることがない。生活に不安をもっている人、心に迷いをもっている人は、みづから滝うけ行を実践して心の鏡を写つしだして、心の開花になることまちがいありません。書聖、中林悟竹翁が、その実践者であったからである。