祇園寺

平戸藩主鎭信公が秀忠公の菩提を弔うために創建

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御本尊

如意輪観世音菩薩
平戸藩史料に拠ると開山当初は、薬師如来石仏とある。明治維新後の県令への届書には、阿弥陀如来と記載の資料がある。

ご詠歌

西海路の現世を祈るみ仏は瀬戸にはやりし姿なりけり

寺宝

経筒「文治五年歳次巳酉十月大勧〇僧永金」
上の陰刻のある滑石製である。

年中行事

修正会涅槃会(日牌供養法要)・春、秋彼岸会(護摩祈祷)・花まつり・施餓鬼会・盂蘭盆会・地蔵盆・宗師講・歳末法要・和讃会(毎月十八日)

縁起

祇園寺は、松浦鎮信平戸藩侯の発願で、針尾瀬戸を臨む現在地に承応元年(一六五二)開山。一圓兵老法印の開基と伝えられる。祇園寺は、もと曹洞宗の寺院であった。鎮信公が平戸藩に始めて天台宗寺院の樹光寺を平戸に開創した。その折、祇園寺と涼雲寺を末寺とし、天台宗としたという、平戸藩の史料がある。平戸藩侯建立の趣旨は、藩内の鎮護・安泰の祈願寺とあわせて、徳川秀忠公の霊を弔う、香華所という記録もある。旧藩時代は平戸城下諸本寺の他、地方末寺の上席にあり、針尾島に五か寺の末堂の史料もある。明治維新の神仏分離まで園宮(現戸御崎神社)の別当寺で、神仏習合の寺社であったことを窺い知る史料、それに伝統風習が今も息吹を伝える。しかし、大正十二年十二月十七日夜、番僧の失火で全焼し、江戸期の建造物は山門のみ残る。薬師堂を除く、本堂・位牌堂・永代供養塔・会館・鐘楼門・庫裡は昭和五十六年以後の建立である。

交通アクセス

電車・JR佐世保線早岐駅下車バス・西肥バス・西海橋線葉山下車(徒歩二km)車の場合西九州自動車道大塔ICを下りて、ハウステンボス方面へ約三kmで、二〇二号線を西海橋(長崎)方面へ八km、古里で農免道へ右折、(無線塔方向へ)二・五km(小鯛)

住職の閑話

薬師堂に「大悲閣」と達筆な篆書風で書いた扁額が掛かっている。扁額は明治の中ごろ、信陽出身の蘭医高島又玄の寄進である。又玄は長崎で蘭医の修業をしての帰りだったということで、寺の境内に寓居を設け、住民の求めに応じて診療もしていたということである。ところが、無頼の釣り好きで、患者が診療に来ても、潮時には「患者は待てども潮は待たず」の名セリフを残し、針尾瀬戸での釣りに熱中した。と、語り草になっている。蘭医又玄は、生きる者の「悲」即ち、苦を除くことの大切さを、この扁額に託している。愚僧はこれが寺の将来像を諭していると受け止めている。そこで、蘭医の又玄とお薬師さまとの縁結びのため薬師堂に揚げ、医療と佛教の「出会いの場」になればと念じている。

明星ケ鼻経筒

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明星ケ鼻経筒に陰刻の紀年銘、文治五年(一一八九)は、平安後期からの末法思想が流行した時期で、そのころに埋蔵されている。この地方最古の金石文史料として注目される。発見場所は針尾島の南端、明星ケ鼻付近である。筒身は、滑石製の細長い円筒形で、蓋の所在は不明で、また、経文も見当たらない。

薬師堂

九州四十九院薬師霊場、第三十五番札所である。開山当時の本尊薬師如来は、現在も園宮に祀り、園寺の薬師堂は前立本尊である。

薬師堂の楽書き祈願

堂内の白壁に願い事を書いて祈る薬師信仰は薬のクサカンムリを取る。すると、楽になる信仰。
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祇園廟(永代供養塔)

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釈尊涅槃の地クシイガナラ郊外に現存する古代仏塔(スッーバ)を模した永代供養塔である。半球体表面の赤色石板はインドの石板で、お釈迦様に縁を求めている。内部も円形で納骨堂。円は円融・円頓で完全円満なる意を表すのである。

祇園寺霊園

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お墓は亡き人との心の交流の拠りどころである。生きた証を祀り、永遠の安らぎを願い、そして、今を生きる人が安心を得る信仰の場であろう。静寂なガーデニング墓地で、美しい(形)かわいい(態)気持がいい(風)仏教の厳かな(宗教)お墓創りをしましょう。