岩蔵寺

平安時代より続く追善の寺

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御本尊

阿弥陀如来立像*胎内に焼失したかつての薬師如来像等の一部を内臓している。

寺宝

宋版大般若経*ほとんどは火災で失われたが断片は県立博物館に委託

年中行事

お経会四月十八~二十日・施餓鬼八月十六日午前十時半

縁起

岩蔵寺は由緒記によると延暦二十三年(八〇三)桓武天皇の勅命により、比叡山西谷の聖命上人が下向して創設した。岩蔵寺の創建によって高隅の里と称されていたこの地一帯は寺の名にちなみ岩蔵と改称されたという。その後一時衰退したが、建久三年(一一九二年)に後鳥羽天皇の勅命により葉上僧正(栄西)が延暦寺より下向して岩蔵寺を再興したとされる。岩蔵寺には三寺として浄土寺、東楽寺、如法寺があり、浄土寺においては如法経会が行われた。寺僧が法要を行い、多久の桐野山の衆徒が音曲を担当したという。この如法経会は大変盛会で北条時政、千葉胤政も参列している。また著名な曽我兄弟の郎党鬼王・駄三郎も虎御前(大磯の虎)とともに参会して曽我兄弟(祐成、時政)の菩提を弔ったとされ、その時祐成、時政の霊が現れて座したとされる「殿の腰掛石」が今も境内地に現存している。戦国時代の動乱期に岩蔵寺も兵火のため荒廃したが、鍋島直茂によって天正十八年(一五九〇年)再興され江戸時代には小城藩の祈願所となり藩士の集会もここで行われていたとされる。なお大正一四年に著された山本隠倫の『尚古年表』には江戸時代近隣の住民が岩蔵寺境内地の近くより治暦二年(一〇六六)の銘の入った銅製経筒を発見し京都の坊城大納言へ献じたとする記録が残っている。

境内整備

岩蔵寺は小城新四国霊場の奥の院であったので近隣の住民にも非常に親しまれていた寺であった。その中の一人が現在の天山酒造、当時の七田酒造の経営者七田秀一氏の令室ツキ夫人であった。当時の坊守タツ(九十一世住職慶心夫人)と非常に親しかった夫人の尽力によりご主人七田秀一様が大発願主となり秀一氏が二千円、夫人が千六百五十円の寄進をされ、同時に檀信徒の皆様からも浄財を賜り昭和十一年に完成したのが現在の庫裏である。現在八十歳以上の檀徒の方は特にこの出来事を鮮明に記憶している方も多く、当時の坊守タツへの敬慕の念とともに懐かしく語り継がれている。戦後すぐには岩蔵寺境内において子どもを預かる保育園も開かれており、当時盛大であったお経会の様子とともに檀徒との距離の近さが伺える。ちなみに七田家は檀徒として属しているわけではなかった。平成三年落慶した岩蔵寺本堂の再建、四年の庫裏の屋根葺き替え、ここ数年の浄化槽の設置、それに伴うトイレその他の整備、庫裏の一部のシロアリ駆除と修復、山門の修復などに尽力された檀徒役員のほとんどの人は小さい頃より寺の境内で遊び本当に楽しかったといわれる方々ばかりで、檀徒と寺の距離の近さが如何にお寺にとって大事なものかを教えてくれる。

名誉住職の閑話

私は昭和七年九月六日生まれ。昭和二十年四月県立小城中学校へ入学しました。当時の軍事教練中「気をつけ、一列縦隊に並べ、前へ進め、右へ進め」との号令に私は右へ進んだつもりで、本当は左へと進んでいました。駆けつけた教官の式刀により殴りつけられた後、私は教官により生まれつき片方の耳が不自由なことを知らされたのです。それ以来私は聴覚障害の事実と向き合い努力を重ねて人生を歩みました。ところが五十台終わりより、その障害が度を越えてきました。検査で見つかったのは直径五センチ強の聴神経腫瘍です。「あ、これで私の人生も終わりだ」と覚悟しての入院手術。退院後はまったく音のない世界です。音を聞くことが永遠にできなくなった私は正に必死の思いで人々や自然の音を観することでのみ周囲と交わっているのです。