円蔵院

大島(多布施)観音

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御本尊

十一面観世音菩薩

寺宝

不動明王・大日如来

年中行事

二月十八日星祭護摩大祈祷会

縁起

円蔵院は、もともと天台宗玄清部の道場で、国主祈願所として、月月日を定めてお城に罷出て国家の安泰、五穀豊饒を祈ることを勤めとしていた。そのため代々厚き庇護をうけ、上香葉の紋を許され、家中の武士をはじめ農工商家の帰依するものが多く、嘉永六年の檀那帳に名をつらねた者は五百六軒といわれる。しかし明治維新の変革という世の波風は当寺にも吹き荒れ、国主の扶持も止み、加えて檀那方の参詣も遠ざかって、香煙もたえがちとなり、堂宇の形もいつしか傾き記録なども失せた。そして子の年の暴風雨により、建物はもとより一切のもの見る影もなく壊れた。ただ本尊十一面観世音菩薩を修めた厨子の裏に寛文六年六月寄進の文字が残されていることで建立年を推しはかるのみであ123る。その後、院主に縁在りし西村覚流が多布施大島に移り住み、寺院再興を願いご本尊に一心に祈願した。その姿に打たれた覚流妻女の遠縁にあたる信心深き小部儀兵衛氏が侍屋敷を買い寄進し、本尊を守護した。更に、次の智覚の代に天台宗本寺院に昇格した。昭和三十年北山に在りし堂を譲り受け、現在の地に移し、荘厳具も整え、智良は智覚の後を受け継ぎ、ご本尊法燈の守護と檀徒各家の興隆、息災安穏を願い十一面観音、不動尊に帰依し続けた。また檀信徒の家にもしげしげ足を運び回向、祈念に怠りなく信者も増え、新たに帰依者もでてきた。本堂伽藍は整ったが、庫裏の痛みがひどく、改築を思い立ち、信念と努力、その熱意が実り昭和五十三年十月めでたく落慶の運びとなった。

交通アクセス

JR佐賀駅タクシー五分