大蔵院

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御本尊

不動明王

寺宝

十一面観世音菩薩・歓喜天

年中行事

修正会・年頭祈願祭(一月二日)・初不動護摩祈祷(一月二十八日)・護摩供法要春季大祭(二月八日)・五月不動護摩供(五月二十八日)・護摩供法要秋季大祭(九月二十八日)・彼岸会・孟蘭盆会・不動明王縁日(毎月二十八日)・除夜の鐘(十二月三十一日)

縁起

天台宗地神陀羅尼経唱詔盲像縁起書があるが、大蔵院歴代住職の記録なく、大蔵院過去帳より転記する。天台宗玄清法流として、元文四年十二月十四日、俊慶法主死亡すとある。それ以前は、火災により記録がない。俊慶法主死後、代々地神盲僧として、「地神陀羅尼経土公神の修法」を、琵琶の妙音曲にのせて、信徒各家庭を回り回向祈願した。特に、四季の土用の地神祭りは、信徒各家の「家内安全、息災安穏、125当病平愈」を祈り、不動明王の御加護をといて信徒の帰依が増した。また、護摩供を修し、厄災除け、諸願成就を祈願したり、加持祈祷を修して多くの人々の難を救い信徒が遠方より参詣するようになった。当寺は、盲目子弟を養育し、人生の明道を歩かしめ、代々この寺を護持してきた。明治になり、宝寛和尚の代になって、加持祈祷が盛んになり、徒弟、番僧を置き、町内だけでなく、県内外各地に出向き、信徒の安心を一心に祈り、病気平愈、災難除け、縁談等願いと一致する事象が数多く続き、信用と願掛けが盛んになった。特に、病弱な子どもの「成長堅固、身代り守り」の霊験はあらたかで、父母、祖父母に手をひかれて不動明王まいりした幼児もあった。次の住職寛明代に寺院の復興、新築を発願し、昭和十九年、多くの浄財により、戦争真っただ中、現在の寺院が建立された。戦争中のため、物資不足の折りではあったが、寛明和尚の熱意と信徒の厚い発願、そして地元住民の献身的な奉仕で、昭和二十三年に落慶にこぎつけた。戦時中で男手少なく、主婦の方々の労力奉仕に頼った工事だった。これを機会に、いままで教会であったものを、昭和二十七年、本寺院に昇格し、法人「大蔵院」として、今日に至っている。

交通アクセス

佐賀駅バスセンターより、犬井道線西古賀バス停下車徒歩五分