大聖院

母里太兵衛友信公菩提と衆生済度

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御本尊

天地一体地藏将軍大菩薩(唱う赤山地菩薩)・大聖不動明王博多仏師・大辨財天女波多江清藏作・貴気之大神・赤山之大神・八幡之大神・熊鷹之大神

ご詠歌

祖霊きて伝へ述べよと神仏の活かす教えと生きる教えを

寺宝

歓喜天・チベット仏・十一面観世音菩薩吉岡法雲作・愛染明王画像京仏師・七面大明神画像

年中行事

修正会正月元旦より四日年頭祈願護摩供・節分会二月三日星祭り豆まき二月四日立春護摩供・彼岸会三月十八日法要・九月二十四日法要盆会・八月十八日施餓鬼供・地藏盆二十四日流潅頂・讃歎会十一月二十四日・本尊供並護摩供毎月四日神納祭・十八日観音供・二十四日地藏供・二十八日不動供・護摩供法要

縁起

当山は黒田藩二十四騎の一人、母里太兵衛友信公を先祖と仰ぎ、菩提供養及び衆生済度の為に、母里家直系二十一代母里嘉三郎(嘉道)御歳四十一歳の厄年の年。先祖太兵衛友信公より霊夢霊言を戴き、母里家の守護神、熊鷹之大神を祭り加護を頂き、因縁を解き、人々の幸を祈れとのお告げを受ける、仏縁ありて、昭和三十五年四十三歳の時、仏門に帰依し比叡山鶏頭院住職京都真如堂貫主森観涛師に縁を頂き、得度を受け法名を嘉道と授かる。天台教法の奥儀を求め、比叡山に入山し一百日の行院を満行。下山後、衆生済度を発起し、昭和二十九年十一月開眼の母里家地藏菩薩の前にて昼夜祈りに徹し、日々を送る中、「天地一体地藏将軍」(後に本尊となる)と名を申されて、「済度に力を施す」との霊言を頂く。叡山回峰行に魅入り、回峰を行うことを発願。上京して赤山禅院に居られた、探題大僧正叡南覚誠老師に懇願して回峰行の認可を求めたところ、中年期に入り生活ある者が入行することに深く痛みに感じられ、「神仏求法の為の行ならば、九州筑前に伝教大師の足跡ある神社仏閣を巡拝せよ」と。そこで師僧真如堂貫主森観涛師を尋ね話し合う。求道行を発願し帰郷。入行祈願の為、大聖不動明王像及び一面六臂弁財天女像を開眼して、地藏菩薩と合せ、三尊を本尊とする。昭和三十六年四十四歳の三月一日より一千日満行を発願して、太宰府宝満山回峰行に入行。行の八百日を越える年、本尊地藏菩薩より「京の洛北赤山」なりとお告げあり。これより本尊を「赤山地藏菩薩」と唱える。昭和四十五年六月八日千日満行し、引き続き、六月十八日より一百日間のそば粉の行をおこない、満行結願十月一日より九日迄、断食断水不眠みん不臥の堂入及び拾萬枚大護摩供を奉じ厳修する。これを期とし晋山並びに落慶の運びとなる。ここに、天台宗天寿山大聖院地藏坊の一寺開山建立の沿革となる。開祖大行満権大僧都嘉道阿闍梨、昭和五十三年八月九日、六十二歳入寂。4041天寿光院大行満権大僧都観涛和尚位開祖の行徳を以って、信徒の信仰も続き現在にいたる。平成五年八月嘉紹代に、前原市大字山北字浦四〇八番地、雷山山系の山裾に本堂を移転。

交通アクセス

JJR(地下鉄)筑肥線波多江駅下車タクシー亜細亜山北まで十五分国道二〇二号線波多江信号左折直進井原信号右折し井原西信号左折直進山北大聖院。(西九州自動車道)今宿でおり二〇二号線

住職の閑話

宗祖大師は、衆生済度を志し発願文の中。世情のすがたを、「擾じょう擾じょうたる四生ししょうは、ただ患うれいにして楽しかうず」と読まれ、また「我れいまだ六根相そう似じの位くらいを得えざるよりこのかた出しっ仮けせじ」と自から心に深く痛みを感じられた。ここに六根とは、眼・耳・鼻・舌(口)身・意(心)である。これによって引き起される諸業。罪と穢れを清浄すること、これで仏の心境(悟り)を得、神仏の加護を頂き、社会に出て人々に教え導くと述べられていることを想うに、一千二百年前も、現代も人の望みとでも言うか、欲くとでも言うか、特に変わりはしない人の世の中。だが現代では、学校教育と行き届いた時代で、物事も豊富である。六根の働き、中でも身、口、意(心)、特に意は、当然のこと表現である。感情と誠意である。誠意には、義務と責任がともなう。心豊な思やりのある人間関系を作ることが、住よい社会と生活環境である、伝教大師は「忘己利他」こそ、その誠心であるとされる。