長命寺

柳河藩主の祈祷寺

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御本尊

不動明王立花道印公寄進

寺宝

秘佛大聖歓喜天、秘佛双身毘沙門天、十一面観世音菩薩

縁起

発祥往古寺は三池郡舞鶴城内にあった。(寺記)今も寺跡の名称を存すという。(藩志)
二、享保十七年(一七三二)中興の祖西戒壇第八世覚城普光和尚が柳川城下椿原小路に自ら建立
三、元文二年(一七三七)青蓮院門跡の直支配となる。
四、延享三年(一七四六)立花道印公(五代藩主の兄)の別荘地の寄付により現寺地に移る。
五、明和三年(一七六六)七代藩主鑑通公の祈祷寺となる。公自ら参詣せられ代参も行われた。寺領七十石余の寄付があった。
六、明治四年(一八七一)廃藩、悉く上地となる。維新の神佛分離の際、坂本小路日吉神社の別当寺廃寺となり、仁王その他佛に関する物は皆長命寺に移った。
七、明治十六年本堂を除き聖天堂、庫裡全焼し別荘時の面影はない。青蓮院直支配という事情からであろうか青蓮院に出された天海僧正の書状がある。「御書頂載……就日光山薬師堂供養之儀自禁中被仰出候哉……(花押天海)」薬師堂供養について朝廷より何か仰せられたであろうか。青蓮院様の御意向をお伺いしたい旨の八十字程の書状である。関東から京へこの様にして気持ちを伝えた往時が偲ばれる。また、寺記に藩主別荘時代より南方数町の間、民家を許さずとある。これは鑑通公参詣の事であろう。公は舟で外堀を来て寺の石橋の所で上がられたのであろう。今この外堀は柳川観光川下りコースとなり、石橋附近は記念写真撮影の場所となっている。南方には長命寺原と地名がある。

交通アクセス

西鉄急行電車大牟田線・柳川駅下車・徒歩十五分JR鹿児島本線・瀬高駅下車・バスで西鉄柳川駅下車

住職の閑話

「其方観設小学創業之際、未ダ学舎無シ二付差向自宅貸シ渡シ学校ニ當テ……」これは明治九年に当山第十世豪鎮が県よりいただいた褒状の一部である。明治五年学制発布。観設小学は長命寺の庫裡を学舎として発足後に境内地に二階建校舎を新築し長命小学と改称、明治十四年現在地に移り、その後幾度かの変遷を経て明治二十五年柳河尋常小学校として整ったのである。明治十六年失火全焼。学校記録は殆んど焼失。諸事情不明となり残念である。小学生が社会科の学習で訪れることがある。当時使用したという机や、豪鎮が師範学校から授与された教員免許状等を資料として見せている。裏書に「此證ハ明治九年三月ヨリ五ヶ年ヲ限りトス、満期ノ後尚教員タラント欲スル者ハ学業ヲ検査シ更ニ證書ヲ與フヘシ」とある。教員免許が期限付ということに引率の先生は驚かれるが、今、教育界でこのようなことが検討されているのは興味深い。