熊本県下益城郡富合町木原2040

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鹿児島本線宇土駅より車4キロ |
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九州道御船ICより15分 |

| 本尊 不動明王 沿革:当寺は千二百年程前、延暦年中に天台宗祖伝教大師の開基であり、本尊不動明王は大師一刀三礼の御作と伝えられ御胎内には御真筆紺紙金泥の法華経寿量品が奉蔵されてあります。また別名木原不動専と称し下総成田の不動尊・東京目黒の不動尊と共に日本三大不動専と並び称されている。さらに当時は西国第一の談議所でもあり、後白河天皇の御宇保元・平治の頃甲斐源氏源為義の八男源為朝、肥後に入て菊池宗田の諸傑と戦い四方を征服し、自ら九州の総師鎮西八郎為朝と称して肥後国守富の在なる木原山の要害に城を築き深く長寿寺の不動尊を信仰し此寺恰も城の東北隅に当るを以て鬼門除きの本尊と仰ぎ寺を祈祷所と定めた。為朝の没後、文治年間右大将源頼朝の崇敬するところとなり堂宇を再興し寺領水田十八町歩寺床地八畝歩を寄附し祈祷所としました。降て後天正年間宇土城主となった小西行長のために焼打ちにされ寺額は没収されましたが、加藤清正公肥後城主となるに及んで再興されましたが、歳月と共に老朽廃頽した。次に元禄十五年、圓入という僧が修造して勤行に精進したが流るる星霜に腐朽し明治維新の変遷に伴ない廃寺となる。しかし西国唯一のこの名刹旧跡の復興の熱願によって明治二十四年二月十五日宇土高良寺総寺院を以て長寿寺跡に移転を出願す、同二十五年一月二十五日その許可を得て雁回山長寿寺と称した。 大正十三年県内有志相諮て木原不動尊霊跡顕彰会が組織されて大方の浄財が募集されて寺を現在の地区に移転、堂宇を新築してここに大伽藍は再建されたのである。 ※木原不動尊の卸本尊を別に水引不動尊と申し上げ、その由緒は往者大早に遭遇し府内の田面 は亀裂して稲萌その他の農作物は枯渇に頻しましたので、農村民一同参籠し雨乞いの大祈願を修したところ一夜の中に大亀裂の田面一斉に溢水したということである。そこで農民達は本堂に参じて御本尊を拝して御礼を申し上げるべく御開扉しましたところ本尊御手足に泥土がついて濡れていました。依って爾来水引不動専と称するようになった。 |