長壽院

筑後十五城二十四人の旗頭、蒲池氏の祈願寺

38.jpg38_0.jpg
38_1.JPG38_2.JPG

御本尊

大日如来(秘仏)・行基大僧正の御彫刻の尊像

ご詠歌

わずかにも曼茶羅拝む人はただふたたびみたびかへりざらまし

寺宝

蒲池焼香炉
太閤秀吉「土器手際無ニ比類一」の朱印状を与える。蒲池焼は藩主御用にて、朝廷や幕府への献上品にて、一般には入手できず「幻の土器」といわれる。

年中行事

星供養花まつり・本尊祭(八月十九日)

縁起

邑里の寺を大治元年(一一二六)蒲池氏源姓古仁が、背振山の慈光和尚に覚雄山大日寺として大願により草建。中興参河守久憲の嫡孫、右馬太輔繁久は大日尊を守仏にし尊信し当寺を浄光院の隣境に移し、堂院を造立し大日尊を荘厳し、伝来の宝剣を摩利支天と名づけ軍陣の守護神とした。その時世、長順坊快彰法師の守護せる。この僧、道徳ありて九十才をを過ぎたり。繁久、常に会語し老僧を尊み、また蒲池家の繁栄をあらわし「長壽院」と改号し覚雄山大日寺長壽院として再興し寺領を寄付した。これより代々蒲池家の祈願寺となり、繁久の嫡孫筑後守治久(兵庫守親久の長子)ことに大日尊を崇敬し仏法への帰依、深く摩利支天堂を新たに建立す。享禄元年、柳河城を築き、その後、蒲池家ますます栄えて、筑後十五城二十四人の旗頭として武門大いにするのである。その後、立花家の代となり元禄十年、昔蒲池家の古寺の跡に移り湯尾山大林寺長壽院として今日に至るのである。

交通アクセス

電車・西鉄柳川駅下車、タクシーで十分車・八女ICより三十分

住職の閑話

蒲池の天台

蒲池と書いて「かまち」と読む。筑後平野の南部にあり、有明海に面し、弥生時代の貝塚や遺跡が多く、古い時代から人が住んでいた地域である。唐から帰国した伝教大師が西海巡行し当地で光を放つ田を堀り、出た石を薬師如来として東照寺を建立したと伝わっている。天慶四年頃に蒲池に砦が築かれ、蒲池氏が、歴史に登場するのである。蒲池氏は厚く神仏の教えを重んじ人仁七十五代崇徳帝の天治二(一一二五)年には、三島神社のそばに本地堂浄光院が、建立され、本尊薬師仏が安置され、神仏習合の天台的な文化を当地が、受容したことを理解することができるのである。浄光院は、高良山の月光院、摂取院と並び「筑後の三院」とよばれ、人々より深い信仰を集めたと言われ当地に天台の教えが、古くより伝わり、伝教大師の遺徳を偲び、人々が、穏やかに暮らしを続けて来た土地柄と思えるのである。