別當坊

梅かおる山伏ゆかりの寺

別當坊.psd

御本尊

十一面観世音菩薩(坐像)

年中行事

修正会一月一日

縁起

七百九十六年・延暦十五年、吉野より桓武天皇の命を受け下向した良厳上人により開かれたとされる。そのことは周知のことであったらしく当地区の三里小学校の昭和二十年頃までの校歌には「昔、桓武の大君の…護国の宮の梅の里…」といった一節があったほどだ。隆盛を誇った時期には日本四大別当坊のひとつと称され、歴史的には僧兵、山伏の活動がよく記されている。江戸末期までこの一帯には十三の坊があった。けれど明治初期の廃仏毀釈により荒廃し、かろうじて明治末期にこの寺のみが復興された。寺宝等のほとんどは失われている。尚、十一代目の住職琳海(りんかい)は花山院家出身という出自の良さもあり、大いに寺門を興隆したとされる。学職も深く、臨済宗の栄西禅師と語らったとされる内容がその著『秘宗穏語集』(大東急文庫《写本》)にはっきりと記されている。

交通アクセス

国道三十四号線牛津大橋交差点を右折し小城町方面へ。牛尾梅林への標識に従い、約五分。(佐賀方面の場合)

住職の閑話

当地の言い伝えによると牛尾山周辺には江戸期より梅が植えられたとされる。現在もその栽培は続き花をめあての人々で春はことさらに賑やかなものである。梅は、平安時代以前には桜よりも尊ばれた同じバラ科の植物。花の咲き方はより穏やかであり、長く楽しめる花でもある。馥郁たると評されるその香りも捨てがたいし、その実が重用されることは言うまでもない。仏の教えも然り。信仰の強烈さや派手さは望めないが、我々の心を穏やかに導く。やはり、仏様はわれわれの近くにいらっしゃるという安心は普遍的だ。さて、当寺の歴史の中で廃仏毀釈は最大の打撃であった。明治五年の資産調査に記された様々なものが三十年の後には粗方消えている。そんな中でも何とか寺が生き残れたのは仏の教えの力と人に恵まれた故であろう。「《廃仏毀釈》を超えて《拝仏貴釈》へ」。我が寺の大きな目標だ。