萬松院

対馬藩主十九代宗義智公、並びに宗家菩提寺

万松院.psd

御本尊

如意輪観世音菩薩

宝物

萬松精舎額(後水尾天皇第三皇女鏡の宮書)・三具足(朝鮮国より島主墓前に寄贈)・徳川歴代将軍のお位牌徳川家康の肖像画(幕府より下す)

年中行事

節分護摩祈祷会(一月下旬)・百雁木灯篭祭(十月)

縁起

当院は、元和元年(一六一五)第二十代宗義成公が国分寺西峰に父義智公の為に数青峰松音寺を創建して追福を祈られ、さらに同八年法号に因んで萬松院と改められた。寛永十二年(一六三九)四月養玉院の令兄多賀の尊勝院横川検校慈性大僧正の勧めで臨済宗より天台宗へ改宗し正保四年(一六四七)金石山麓を拓いて新たに堂宇を造営し山号を鍾碧とした。これが現在地である。寛文三年(一六六三)かねて招請していた慈性の高弟円純法印が筑後高良山より晋山して開山となった。元禄十四年(一七〇一)大火にあい、宝永四年再建するも僅か二十一年後の享保十二年再災。翌年再建するも度重なる火災は大師堂、護摩堂、経蔵、宝蔵等を灰にし、二度と復旧されることはなかった。現在の本堂、庫裡は明治十二年(一八七九)十月第三十三代正二位宗重正公の寄進である。本島最古の建物といわれる正面山門両側の仁王尊は、享保の再建の際守護神として祀ったものであり内陣の本尊その他の什物には鎌倉、室町の作品を存している。旧藩時代には寺領二百石と全島天台宗総司の職を附与され、朝鮮国王は義智公の厚ぎを重んじて萬松院送使の銅印を与え年々の祭典を助け、歴代藩主の逝去に弔礼を修して墓前に青銅の三具足を供献した。宗氏の菩提寺は東京養玉院と当院であるが、御霊屋には藩主と正夫人、側室童子らが祀られている。

交通アクセス

厳原港より徒歩二十分。車五分対馬空港よりバス二十五分車十五分

住職の閑話

『政はすべて島形にせよ』

『政(まつりごと)はすべて島形にせよ』。十九代藩主義智公の言葉である。対馬は、上下二つの島からなる南北に百キロの細長い島である。そのことから、政治は細く長くが一番であるという意味である。豊臣秀吉の朝鮮出兵直後の徳川幕府と朝鮮王朝との関係修復に尽力し、まさに「クッション」の役割を果たした義智公の言葉として奥深いものがある。国書改竄事件では幕府の吟味の末無罪放免となったが、最近、国書改ざんを示す資料などが発見されて、その疑惑は色濃くなった。しかし、両国の関係を保つその一心でしたことで他意はなく、いたしかたなしと、当時の幕府も容認したのではなかろうか。まさに、『うそも方便」である。義智公のそのひととなりを表すように、境内脇に家臣がいつでも藩主に対し、ものが言えるよう、諫言するときに打ち鳴らす『諫鼓』が置かれている。