安禅寺

脊振千坊一帯の菩提寺として創建

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御本尊

阿弥陀如来

脇仏

十一面観世音菩薩・不動明王・勢至菩薩・弁才天・地蔵菩薩

寺宝

地獄極楽絵図十本・元三大師百籖御籖原版木・慈母観音像軸

ご詠歌

弥陀たのむ香の煙りの一筋に脊振の嶺は浄土ともがな

年中行事

星祭節分会護摩供法会二月三日・春秋彼岸法会三月、九月・施餓鬼法会八月九日・虫供養七月一日・天台会十二月二十三日・坐禅修養随時・念佛講和讃会毎月十日、二十日

縁起

寺伝によると和銅二年湛誉上人によって脊振山が霊山として開かれ、やがて脊振千坊の繁栄をもたらした千坊唯一の回向道場が当山である。創建後の過去帖は今も保存されている。爾来当地一帯の檀徒は千戸余りに及ぶ。江戸中期の過去帖によると年間、五〇~六〇名の葬儀を営む程の檀徒を有していた。応永三年八月大友軍の兵火により堂宇焼失するも慶長十五年、当時の住職、幸海に帰依されていた肥前国主鍋島信濃守綱茂が大檀那となり、松隈の住人、萬右ヱ門他を施主として本堂、庫裡、七体観音堂、地蔵堂、大師堂、鐘樓堂、山門の再興がなり、これをもって安禅寺中興第一世を幸海と為す。明治八年、寺領により維持されていた檀徒なき寺院の衰退を嘆いた第二十三世貫仁大僧都は当山檀徒六十一戸を他寺に附している。昭和五十一年傅教大師出家得度千二百年を機に老朽化した本堂、庫裡の新改築を発願、檀信徒の浄財と資材の寄進により、昭和五十三年三月再建、同月十九日、青蓮院門跡東伏見慈洽猊下親修のもとに落慶法要を修し現在に至る。

交通アクセス

JR長崎本線吉野ヶ里駅より車で五分。高速長崎道東脊振ICより三分。国道三四号線三田川より国道三八五号を北へ五分。

住職の閑話

安らかな禅は是れ薬なり

「安禅是薬」の扁額は、元天台座主山田恵諦大僧正の御染筆として床の間に掲げられている。当山は、本堂の前に地蔵尊堂を建立して、此の地一帯の回向菩薩を祈りつつも今生きている檀信徒の修養の為に座禅の道場として門を開いている。夏休みには、地区の子供や父母や学生の参加者も多くなった。月例祭の念佛講、叡山流講は二十五年間に及び、世代は変わっても尚活発である。本尊阿弥陀如来の前に静かに自分を振り返り坐る。悩んでいる人。悲しんでいる人。愚痴を言いたい人や苦しんでいるあなた。坐禅は心の健康法なりと、扁額は語っているようである。